房子のはなし (小学校卒業まで) ① ~祖母の事、ランプの事、服装~ 振り返ってみて女学校卒業までの私は勿体ないほど、恵まれた子であった。世の中には自分の誕生と同時に、いつくしみ育ててくれる筈の母を失う子もあれば、幼い頃から親達のごたごたに巻き込まれ、人の世の冷たい風に泣く子もある。幼い時の事は本人の全くあずかり知らぬ事で運命とか宿命としか云い様がない。 さて私の覚えている一番小さい頃の記憶から書いてみると、母の寝床で母の乳を吸っていた記憶である。記憶に残っているく
はじめに 人生五十年と云った時代もあったのに此の頃は八十才まで生きる人は少なくない。それどころか百歳と云う人も、それ程珍しくもない時代になった。 かく云う私も平成八年二月で満八十才と云う年令を迎え本当にそうなの?と自分自身に問いかけて見たりする。 でも身体の何処にも痛い処も無かった私が左足の膝が痛くて正座もしゃがみも出来なくなったのだから、やっぱり高島暦の云う通り、間違いなく八十路を越えたところに来たんだと改めて思う。 女学校の同級生の友が立派な自分史を自費出版して
昨年から母方の祖母の家で民泊を始めた。 なので、今年は祖母の事などを書こう!と意気込んで投稿したのだけれど、何から書こうか…と迷っている。 祖母が書き残した手記が沢山あるけれど、なかなかまとまらないものだ。 だから、最近は祖母の事、祖父の事をよく考えている。 母方の祖父は会ったことがない。 私が生まれる前に亡くなってしまった。正確には、私の父と母の結婚が決まり結婚式も決まっていたが、病気が見つかり、結婚式を延期したという。でも、治る見込みがなく入院中に結婚式を挙げた。式の日
今日から少しずつ書きはじめる✨ 2月4日は立春。今日から新しく気が変わる、と言う事で、今日からスタートしたいと思います。 2年ほど前から島根県出雲市の山奥で民泊をしています。 この家はもともと、私の祖母が長年一人暮らしをしていた家。 私は小さい頃から家族で年に数回、遊びに来ていました。 私の家から当時は車で1時間半くらい。 ちょっと遠出の旅行で弟とワクワクしていたと思います。 私が仕事を始めるくらいになると、祖母も高齢になりつつあり、様子をみに一人で遊びに行ったりしていまし