大正から平成を生きた祖母のお話し
はじめに
人生五十年と云った時代もあったのに此の頃は八十才まで生きる人は少なくない。それどころか百歳と云う人も、それ程珍しくもない時代になった。
かく云う私も平成八年二月で満八十才と云う年令を迎え本当にそうなの?と自分自身に問いかけて見たりする。
でも身体の何処にも痛い処も無かった私が左足の膝が痛くて正座もしゃがみも出来なくなったのだから、やっぱり高島暦の云う通り、間違いなく八十路を越えたところに来たんだと改めて思う。
女学校の同級生の友が立派な自分史を自費出版して其の一冊を送ってくれた。
拝読させて頂いたが、その友の私も知らなかったすばらしい人柄が滲み出て,私はますます好きになった。そして非凡な文才に今更乍(なが)ら一気に読ませてもらった。
読後、思った事は、これで筆を止めず、もっともっと書き続けて欲しいと云う事であった。私がこんな事言わなくても貴女は、きっと、書かずには居ないと思う。だから私は、これからの貴女に、とても期待している。
さて次は私の事だけど、私は全然文才がない。だのに何故か書くことが大好きだ。下手の横好きと云う言葉通りだな、と分かっている。
そんな私でも私なりに好きに任せて自分の生きて来た八十年の出来事を、生きざまを書いて来た原稿用紙が沢山溜まった。それは、丁度、私の二女が、「私の知らない、お母さんの両親や祖父母の事が知りたいから、お母さんの覚えている限り、どんな人だったか一生懸命思い出して出来るだけ詳しく書いて置いてよ。勿論お母さん自身の事もよ。お願いだから」との事が、きっかけで書き出した。
だが、どう云う形態で書くものか全然分からず、そんな事教わった事もないので自分の記憶の一番古いものから書き出している。
ふり返ってみて私は誕生から母のなくなるまでは勿体ない程に恵まれた子であったと思う。私には兄英夫が居たが、私の生まれる前年三才で夭折(ようせつ)している。大正四年八月二十二日の事だったと聞く。
父義雄と母千代美にとって初めての子であり長男でもあった子を亡くし二人の悲しみは勿論、祖父母共々に全く意気消沈と云う状態の時の私の誕生は一家にとっては家族を勇気づける大変な悦び事だった様だ。
その後、妹美代子も生まれたが四才にして、大正十三年八月十八日これ又早世、どうした訳か真ん中の私だけが育つ事が出来た。
出来る事なら兄英夫が育ち、この家の後継者となってくれたら、どんなによかったろうと私は、常に思っている。
妹美代子は元気のいい利発な子だったのにエキリと云う一分でも早い手当を必要とする病を、父母の一番忙しい時に発症し悔恨(かいこん)を残した。皮肉な事に真ん中の一番愚鈍(ぐどん)な私が残り育った。
さて人間の記憶とは何才位から残るものなのだろうか。私の一番幼い時の記憶と云うと、母の寝床の中で、お乳を吸い乍ら母の、うしろの襖を見ていた記憶がある。襖の色や模様までも母の温かみと共に思い出せるのだが、これは、きっと一人っ子の甘えん坊だったろうから三才頃まで母と寝ての思い出であろうとおもう。次は眠いのを起こされて顔を洗い紋付を着せられて写真を写した思い出がある。
アルバムに紐落しの写真がある。確かにこの時の思い出だ。今アルバムに写真がないので稲荷社の横の杉の木の前で一人コチコチに堅くなって写した写真があったが、それ等の時の思い出だ。家族と写した写真を見ると如何にも眠そうな顔をしている。
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