大正から平成を生きた祖母のお話し②
房子のはなし (小学校卒業まで) ①
~祖母の事、ランプの事、服装~
振り返ってみて女学校卒業までの私は勿体ないほど、恵まれた子であった。世の中には自分の誕生と同時に、いつくしみ育ててくれる筈の母を失う子もあれば、幼い頃から親達のごたごたに巻き込まれ、人の世の冷たい風に泣く子もある。幼い時の事は本人の全くあずかり知らぬ事で運命とか宿命としか云い様がない。
さて私の覚えている一番小さい頃の記憶から書いてみると、母の寝床で母の乳を吸っていた記憶である。記憶に残っているくらいだから決して赤ちゃんの時ではない。一人り子の甘えん坊だったろうから、年はもう三、四才の頃だったのだろう。その思い出は即、母の胸の温かみと共に私の脳裏に鮮やかに甦ってくる。そして母の寝床の後方(うしろ)の唐紙(からかみ)の色、柄までも頭に残っている。きっと母の乳をしゃぶって遊び乍(なが)ら、きょろきょろあたりを見ていたのだろう。その部屋は今はもうない母屋の、二階の一番川側の部屋で、父母と私の忘れられぬ思い出多い部屋だった。今にして思えば、あの母屋は私にとってあまりにも倖せの詰まった宝箱の様な家だった。心情的に云えば、どんなに補修してでも置いておけばよかったと思う位だ。併(しかし)、現実的には神社の正中線にあってあまり家相的にはよくないと父から聞いていた。だから取ってしまって、それはそれで良かったと思う。
前の話しに戻って、夜中、私が「シッコ」と母をゆさぶると母は起きて私の手を引いて階段を降りて便所に連れていってくれた。部屋に戻る時、私は階段の上り口で決まった様に「ナンゾ?」(おやつの略語:何かおやつはない?)と母の顔をみた。「朝起きて顔を洗ってからね」と母は私の手を引っ張って連れて上がった。それは階段の横の茶の間の、大きな黒い戸棚の、向って左側の戸を開けると、そこには生菓子、おせんべい、ゼリビンズ等、色々の菓子が入っていて、昼間、母がそこから、その〝ナンゾ〟なるものを出してくれていたからだ。
一方、私は無類の、おばあちゃん子だった。
婆子(ばばご)は三文下がると云われるが、私は三文どころか五文も十文も下がる子だったかも知れないとおもう。女中さんは見々具(おそらく見々久町:今の出雲市の地名)から来ていたフデノさんか又はマスさんと云う人であったと思う。おんぶされて色々の所へ行った記憶がある。
おんぶと云えば私は祖母におんぶされて、よく近所にも行った。粟屋、田納屋さん、畳屋さん、今川さん、市場さん宅、おコメさん宅、ツル婆さん宅。世の中が本当に、のんびりした時代だったとつくづく思う。夏は松屋へよくかき氷を食べに連れて行ってもらった。
祖母は私を連れてよくお遊びに行く家へは、その家々で早々欲しいけど、なかなか買えない品物を買って上げていたらしい。これは、ずっと後でわかった事で、もらった先方から私が聞いて知った事だ。それは大きな水かめだったり、花ござ、火鉢、鉄びん等々、相当高価なものだった様だ。と云うのは祖母は恩給と云う大変結構な財源を持っていたし、父母も孫をいつも子守してもらうので、所謂(いわゆる)お小遣いを上げていたらしいから祖母は金持ちだが余り使う事もないので自分がよく行く家に心づけをしていたのだ。
この事は私が物心つく様になってから、「これは椿のおばあ様から買ってもらった水かめで、もう十何年も使わせてもらってますよ」と云う具合に聞き知った訳だ。そんな具合だったから祖母は何処に行っても確かに歓迎され尊重に取り扱われていた。背に、のっかって行く私までも祖母や父の七光に浴していたとおもう。
祖母は明るい気さくな性格で子供好きだったから私の小さな時は、「とんとん昔話し」や、絵本読み等をしてくれ、少し大きくなってからは、「こぶいし(おじやみ)(おそらくお手玉のこと)」を作ったり、「こつつり(おはじき)」入れの袋や人形の着物を沢山縫ってくれたし、「かるた」「すごろく」「なぞなぞ」「いとどり(あやとり)」と本当によく遊んでくれたから、父母が忙しくて余り遊んでくれなくっても、お蔭で決して淋しい子ではなかった。恵まれていたと思う。髪も祖母が櫛を入れたり三ツ編にしてくれたりで祖母は楽しそうに、いつも私をきれいにしてくれていた。私も母より祖母が好きで、「今夜は、おばあちやんと寝るから二階に運ばないで」とよくよく母に頼んで寝たが、朝目覚めてみると必ず二階の母の床の中だった。「誰が、もそんだ?(運んだの方言)」と大やんちゃを云った事も覚えている。或る夜、私が夜中に大声で泣いたそうで母が驚いて私をなだめて聞いたら、「おばあちやんが "人さらい" にさらわれて、助けに行ったら竹藪の中の小屋にしばられている〟とわあわあ泣くので母が「それは夢を見たのだよ。おばあちやんは、さらわれてなんかいないよ。大丈夫だよ」と云った。この夢は今でも私ははっきりと覚えている。母の云った言葉も、それはもっと、この辺りの方言で云ったのだろうけど、不思議に忘れる事が出来ない。
東京生れの祖母は、この辺りの人の知らぬ童歌を、よく口づさんでいた。その中でも印象深いのが次の童歌だ。
お月さん なんぼ 十三ならつ
まだ年しや若いな あの子を生んで
この子を生んで お万に抱かしょ
お万どこいった 油買いに茶かいに
油屋の縁(えん)で すべってころんで
油一升こぼした その油どした
白どんの犬と 黒どんの犬が
みんな なめて しいまった
その犬どした 太鼓にはって
あっち向きゃ どんどこどん
こっち向きゃ どんどこどん
耳を澄ますと祖母の声が聞こえる様で恋しくなってくる。
もう一つ大いに時代を感じる思い出が残っている。
それは太陽が沈んで夕方になる前に、祖母と必ずやった日課がある。
それはランプ掃除だ。母屋の階段の下がうまく利用され戸棚になっている。その戸棚の中から必要な数だけランプを取り出し、縁側に新聞紙を敷いてその上でランプ磨きだ。先づ笠と油入れをはづしてホヤの部分から初める。手でもんで柔らかくした新聞紙で内側も外も磨いた。すすが取れてきれいになる。少しでも明るくと云うわけで、祖母とお話しながら一生懸命でやった。父母が、「おばあちあんと房子が毎日やってくれるから明るいね」と云うのが嬉しかった。油入れに油も足して夜にそなえた。祖母は手を動かしながらも、ろうそくの時代、カンテラ(燭台)等の話しと共に夜な夜な油をなめに来る抜け首(ろくろ首)の話しや、化け猫の話しまでしてくれて、とっても面白かった。私は本当は余り磨かないで話しに夢中になったり、祖母の手間をとって邪魔をしていたに過ぎなかったかも知れぬ。でも終ると、「いつも房子が手伝ってくれたから、きれいに磨けたよ」とか「お蔭で早くすんだよ」とか、ほめてくれた。私は大変良い事をしたような気持になった。
又一方、 "そんなものは決してまたいで通るものではない ” とか "物は大事に使わないとバチが当たるよ ” とか時に触れ、折にふれ、母が見てくれない分、祖母が教えてくれた。今思うに祖母の話しの中には勧善懲悪、報恩感謝、情緒、やさしさ、大切なものが皆含まれていたように思う。子供の時は気付かなかったが後になって、つくづく有難い事だったと思う。こう考えてくると婆子(ばばご)も満更でもない気がする。否、婆にもよるだろう。私の場合、婆が優秀だったが、孫の方が十分でなかったかもしれない。申訳ない。今からしっかりしても遅すぎる。
さて後に戻ってランプの時代にも、ようやく別れる時が来た。
時は大正十二年一月から電燈なるものがつく事になった。話に聞けば大正五年一月に窪田村に電燈がついた由だが、それにより七年も遅れて須佐にやっとついたのだ。大正十二年と云えば私も七才。よく覚えている。と云っても電工さんが来て家の中で、どんな事をしたかは記憶にないが、今夜から電燈がつくと云う日、胸がドキドキする程嬉しかった。だれも、その時刻を今や遅しと待っていた。パッと電燈がついた時、家族の皆が〝わあ‼〟と歓声を上げて手をたたいた。「明るいね」「真下に影がなくていいね」とか云って喜んだ。
須佐の山の中にも、ようやく電気と云う文明の利器がもたらされた。部屋の電燈と云えば皆一様に白い笠に透明のホヤでホヤの真下のとがった角(つの)のあるもので、真中あたりに電気の通っている赤い線が見えた。外燈はと云えば玄関の外の軒下に白いすりガラスのドッチボール程もあろうかと思う大きな外燈だった。その中に、もう一つ電球があってその中に電気がつくらしかった。電気をつけると大きな丸い外燈はオレンヂ色に輝いた。前庭が夜でも、すっかり明るくなった。併(しかし)、この外燈はどの家にも、つけられている訳ではなかった。どこの家についていたかは覚えないが私の家には夜でも患者が来るから、着いていたのではあるまいか。
とにかく子供の私は電気って何だろう、どうして、どの家も一緒にパッとつくだろう等々不思儀でならなかった。私は隣近所の電燈も見てこようと祖母と二人近所中の電燈を見て歩いて事を覚えている。もう夕方のランプ掃除はしなくてもよくなった。それどころか長年お世話になったランプとも長の別れとなった。山深い里にとって本当に初めて見られた文明の開花で、誰もの心に豊かさの美しい灯がともった。
次に私の子供時代の服装だが、誰れも男も女も和服の時代だった。
物は少し短めに縫上げをし肩上げももしてもらって "しこき帯(しごき帯) ″ で学校に行った。履物は天気の日は "わら草履 ”だし、雨天は下駄か "ぼくり(木履)”。でも私は小学校何年の時だったか覚えていないが、ゴム靴を買ってもらった。六年生の時の写真には長い袖の下部に模様のある黒紋付に袴をはき靴を履いている写真がある。父母や祖母のお蔭で、こんなにきちんと服装も調えてもらっていたのかと有難く思う。この写真の袴は祖母が純毛の生地で作ってくれたものだ。髪型は、よく祖母や母が結ってくれた私の好きな髪で両びん(左右両方の髪)をとり三つ編みにして後で合流させたものだ。写真をとってくれたのは専門家か父か覚えていないが、父も写真機を持っていて小学校時代はよく撮ってもらった。
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