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新説!邪馬台国の真相【コラム】

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邪馬台国はどこに?「魏志倭人伝」はなぜ事実を書かないのか?近畿説はなぜありえないのか?などを、新説を交えてズバリ解説。邪馬台国の場所を特定します。
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新説!邪馬台国の真相1>>>>

<はじめに> 「邪馬台国」は、テーマにしたい私のライフワークのひとつ。マンガ作品のために長年調べてきましたが、創作ものよりもまずこの検証した事実のおもしろさを、論説文として形にしたいという強い思いにかられ、ここに発表することにしました。 ちょっとマニアックな内容ですが、誰でも読めるような文体にしようと心がけました。興味のある方はぜひ、歴史に興味のない方もそれなりに(笑)ご覧ください。 新説!邪馬台国の真相1>>>>   私たちの国はどうやって生まれた? 邪馬台国はどこにあ

新説!邪馬台国の真相2>>>>

新説!邪馬台国の真相2>>>> 卑弥呼はなぜ女王になれた?  前章では、人々が「倭人伝」に書かれた邪馬台国までの解釈に左右され、いろんな説でわけわからなくなっている、とお話ししました。 もっとシンプルに、こんな記述から目を向けてみましょう。 このたった2行に、答えは眠っているようです。 『国は大いに乱れ、お互い何年も攻めあったので、共に一人の女子を王に立てた、名を卑彌呼という。鬼道に長け衆の心をつかむ』 2世紀後半、倭が大いに乱れて戦乱が起きたが、みな戦いに疲弊したので

新説!邪馬台国の真相3>>>>

新説!邪馬台国の真相3>>>> 倭国大乱の真相とは?  「倭国に外敵が生まれ、あるいは外敵が迫り、国内で争っている場合じゃなくなった」 はい。私は、これが倭国大乱がおさまった最大の理由だと考えます。 極端に言えば、共立される王は卑弥呼じゃなくてもよかったかもしれませんよ。 「女子(シャーマン)」ならば…… 具体的に「外敵」を検証しましょう。 まず、なぜ大乱が起こったか?は、弥生後期の寒冷化・異常気象がその遠因と考えられます。(現在は逆に温暖化で異常気象ですね) 天候不順が

新説!邪馬台国の真相4>>>>

新説!邪馬台国の真相4>>>> 日の巫女がまつりごとを支えていた? いきなり話は飛びますが、10世紀・沖縄。 このころから沖縄では、各地方で王(按司)が現れ、部落国家を形成していました。そこにはそれぞれノロ(巫女)がおり、彼女らはクニの繁栄や五穀豊穣、航海の安全を祈祷し、王を守る精神的支柱として存在していたようです。ノロはその後、聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とした神女の組織に整備され、琉球王国の統一に大いに関わったとされています。 この沖縄の部落国家の状況が、私には

新説!邪馬台国の真相5>>>>

新説!邪馬台国の真相5>>>> 畿内説はなぜありえないの? 「倭人伝」の裏事情をお話しする前に、なぜ邪馬台国が畿内ではないのか?をもう少し説明しておきたいと思います。 畿内には近年、歴史上ある重要な遺跡が発見されました。奈良県桜井市の「纏向(まきむく)遺跡」です。ここにあるのは、他にはみられない都市計画にのっとった宮殿、日本初の前方後円墳、日本初の巨大古墳、日本中から集まった土器類、のちの平城京に匹敵する大規模な遺構。これらを有しているのはここだけです。間違いなく日本とい

新説!邪馬台国の真相6>>>>

新説!邪馬台国の真相6>>>> 「魏志倭人伝」のウソ 一般的なことから、ザッと説明しますね。 「魏志倭人伝」は正確にいうと、中国の歴史書「三国志」の中の、「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」のこと。中国人は東の国々のことを「東夷(とうい)」と呼んでいました。で、「東夷伝」の中に、倭人を紹介した記述があり、それを通称「魏志倭人伝」と呼んでるわけです。3世紀末、中国王朝・西晋の陳寿という人が責任編集しました。 さてここで特筆すべきは、倭を”遠方の大国”として描いているってこと。 紹介する

新説!邪馬台国の真相7>>>>

新説!邪馬台国の真相7>>>> 卑弥呼が倭の女王になったわけ いきなりですが、中国側から見た倭国地図を描いてみたいと思います。 あえて方角や距離を「倭人伝」のままに再現すると、こうなります。 ●倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る ●女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。 ●侏儒国がその(女王国の)南にある。女王国を去ること四千余里。 ●また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。 ●倭地を考えてみると、遠く離

新説!邪馬台国の真相8>>>>

新説!邪馬台国の真相8>>>> 「曹操の鏡」の意味するものは? では、まず下の記事をご覧ください。朝日新聞2019年9月8日のものです。 あの三国志の英雄・曹操の墓から出土した副葬品と、同型の最高級の鉄鏡(「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)」)が九州・大分県の日田市の遺跡から見つかりました。写真では錆びてしまってたいした物ではないように見えますが、 「背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。また、眼や体の所々には

新説!邪馬台国の真相9>>>>

新説!邪馬台国の真相9>>>> 倭人伝は方角を勘違いした まず、中国人が勘違いした「方角」から話をすすめます。 「倭人伝」では邪馬台国への道のりを、このように書いています。 上が「倭人伝」に記載された道のり。下が実際の地図に照らし合わせた道のりです。 帯方郡から奴国までは、九州説の学者も近畿説の学者もほぼ同意見ですが、問題はこの先。このまま南へ向かうと九州を通り越し、東シナ海のどこかの離島に邪馬台国があることになってしまいます。 では、もう一度地図を拡大して、対馬~奴国ま

新説!邪馬台国の真相10>>>>

新説!邪馬台国の真相10>>>> 倭人伝は距離をごまかした つぎは、距離の粉飾に関して申します。 当時の中国の距離は、1里=435メートルって決まっていました。(秦の始皇帝が定めたものです)じゃあ普通に考えれば、ちゃんと里数が書かれているし、そのまま辿れば目的地まで着くじゃん、と思いますよね? 実はそこがくせ者。 倭人伝の距離はどうみても435メートルじゃない。435メートルだったら倭国は日本列島をはるか突き抜け、フィリピンのさらに南という場所にあったことになりますから。せ

新説!邪馬台国の真相11>>>>

新説!邪馬台国の真相11>>>> 邪馬台国を特定する さて前章では、「倭人伝」の誇張ぶりを炙り出しました。結果、「不彌国」~「邪馬台国」間の距離表記はすべて却下すべきでしょう。しかし、方角に関しては勘違いはあるもののウソを書く必要はなかったと考えられ、したがって「不彌国から南へ至る」という情報は、ある程度信じていいと思います。 ちなみに通説では、「不彌国」→「投馬国」→「邪馬台国」と直線上に解釈してますが、私はそうは思いません。「倭人伝」の書き方では「不彌国」から先はまるで

新説!邪馬台国の真相12>>>>

新説!邪馬台国の真相12>>>> 封印された神の社 前項で、邪馬台国は宇佐~中津平野一帯にある、という答えを出しました。 でも、ここが本当に邪馬台国なのか、裏付けをする必要がありますね。ではもう少し踏み込んで、卑弥呼の居場所まで探れないか、検証してみましょう。 まずは中津平野一帯の弥生遺跡。 残念ながら、ここは弥生時代の先進国とは言い難く、その遺跡も福岡県・佐賀県と比べ、多くはありません。 しかし近年、宇佐市小部(こべ)遺跡から、古墳時代前期の大型建物跡を示す柱穴が出土し

新説!邪馬台国の真相13>>>>

新説!邪馬台国の真相13>>>> 卑弥呼の眠る森 で、この「二礼四拍手」の儀礼を持つ神社は、日本広しと言えど、出雲大社と、あともう2社しかありません。 その一つはどこかというと、そう、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」。 ここにも謎は多く、そもそもその御祭神の主神が、だれだかよくわかりません。 3柱いて、第1柱は左わきに応神天皇(第15代)、右わきに神功皇后(架空の人物説も)、そして第2柱ながら中央に配し、応神天皇よりも神功皇后よりもドドんと主格に祀られてるのが、「比売(ひめ)