新説!邪馬台国の真相6>>>>
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「魏志倭人伝」のウソ
一般的なことから、ザッと説明しますね。
「魏志倭人伝」は正確にいうと、中国の歴史書「三国志」の中の、「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」のこと。中国人は東の国々のことを「東夷(とうい)」と呼んでいました。で、「東夷伝」の中に、倭人を紹介した記述があり、それを通称「魏志倭人伝」と呼んでるわけです。3世紀末、中国王朝・西晋の陳寿という人が責任編集しました。
さてここで特筆すべきは、倭を”遠方の大国”として描いているってこと。
紹介する文字数も、他のどの国よりも多く、北の強国「鮮卑」は1230文字、「鳥桓」は462文字。「扶余」715文字、「韓人」でも1427文字。比べて「倭人」では1983文字もあります。
邪馬台国の人口は7万人。それに加え、何と言っても卑弥呼は魏から東夷の国では唯一「親魏倭王」の金印まで授かったわけですから、その厚遇っぷりはすごいものでした。(ちなみに韓族は銅印です)
そんなに厚遇するのはなぜ?
実はここがポイントです。なんで魏は、倭国をこんなに特別扱いしたの?
時代は下りますが、西暦600年。厩戸王(聖徳太子)が最初に送った遣隋使は、ひどいものでした。礼儀がなっていない、服装が粗末、国として成立していないなどの理由により、金印を授かるどころか、皇帝にも会わせてもらえず、門前払いを食ってすごすごと帰ってきたのです。なんという違いでしょう。
実は、ここに当時の中国側の事情が関係していました。
先ほど金印をもらったのは、東夷では倭国だけ、と言いましたが、西域では唯一「大月氏国(クシャーナ朝)」が金印を授かっています。
魏・呉・蜀の三国志時代。魏の曹真は、蜀にプレッシャーをかけるため、蜀の背後にある大月氏国(クシャーナ朝)と関係を持つことに成功。そのはたらきかけで大月氏国は魏へ朝貢し、このとき初めて魏は「親魏大月氏國王」の金印を与えました。229年のことです。
それから遅れること9年後、魏の司馬懿は東の公孫氏を滅ぼして、倭国と関係を結びます。なぜ魏が倭国を必要だったかというと、当時中国人は、”倭国は呉の沖合にある島国”と思ってました。そこで倭国を味方にさせることによって、呉の背後からプレッシャーをかけようと考えたのです。
かくして蜀へのバックアッパーとして西の大月氏国。呉へのバックアッパーとして東の倭国。その両国に金印を授けて、魏は中国統一に向けて盤石の体制をつくろうとしたのです。
つまり、卑弥呼の「親魏倭王」授受のプロセスは司馬懿の描いたシナリオだった、といっていいでしょう。
ところが「三国志」は、西の大月氏国よりもはるかに大きく東の倭国を取り扱いました。なんせ三国志に「東夷伝」はあるのに、西の記事(西戎伝)はありません。驚くことに、曹真の功績をほとんどスルーしているわけです。その理由は、曹真の曹一族と、司馬懿の司馬一族のライバル関係にありました。
司馬一族は後に(265年)、曹一族を滅ぼしてしまったのです。王朝も「魏」から「西晋」へ替わりました。
で、西晋王朝のもとで陳寿が「三国志」を作成したものですから、司馬氏(=皇帝)をヨイショする歴史書になっていったのは当然のこと。
「正史」とはそういうもの。「正しい歴史書」という意味ではなく、「王朝を正当化する歴史書」なわけです。
このような時代背景で「魏志倭人伝」は書かれました。
となると、司馬氏の功績をより大きく見せるため、「倭人伝」は何をしたか?
それは…
倭国をより「大国」にみせること。そしてより「遠い国」にしたてること。なぜ遠い国かというと、遠ければ遠いほど、中国皇帝の権威が広まり高まっている証拠になりうるからです。
「ああ、遠方の大国で礼儀正しい国から、我々の属国になりたがっている使者が来た。これも我が皇帝の徳のなせる業であろう」と。
つまりはっきりここで申せば、より大きく見せるため、「倭人伝」に書かれた国の人口規模は大きくされ、”粉飾”されました。また、より遠くに思わせるため、「倭人伝」に書かれた距離も 遠くにみえるように、かさ上げされ”粉飾”されたのです。
「倭人伝」は、そういうバイアスがかかっているんだ、ということをまず肝に命じなければなりません。
ちなみに方角は”粉飾”というより、”勘違い”です。この件に関しては別項で説明します。
要はこのことを理解しないまま、「倭人伝」に書かれたコースを解釈しようとするからゴチャゴチャになるんですね。