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新説!邪馬台国の真相3>>>>

新説!邪馬台国の真相3>>>>
倭国大乱の真相とは?
 

「倭国に外敵が生まれ、あるいは外敵が迫り、国内で争っている場合じゃなくなった」
はい。私は、これが倭国大乱がおさまった最大の理由だと考えます。
極端に言えば、共立される王は卑弥呼じゃなくてもよかったかもしれませんよ。
「女子(シャーマン)」ならば……

具体的に「外敵」を検証しましょう。
まず、なぜ大乱が起こったか?は、弥生後期の寒冷化・異常気象がその遠因と考えられます。(現在は逆に温暖化で異常気象ですね)
天候不順が長く続き、洪水とひでりが交互に繰り返し、稲が育たず、人々は飢え、たまらず食物と水と土地を求めて他国に侵入しました。それゆえ彼らは、武器をつくり集落のまわりに環濠をはり、有事に備えたわけです。

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そんな緊張状態の中、あるきっかけがあって乱は拡大した、と私はにらんでいます。
そのきっかけとは、184年に中国で起きた「黄巾の乱」
おそらく中国大陸でも異常気象が襲い、耐えられなくなった農民の不満が爆発。あっという間に中国全土が戦場と化しました。そのせいで後漢が衰退したと言われていますが、この混乱で多くの難民が発生。その中には倭国まで逃げた一族もいたでしょう。しかし倭国にしてみれば、彼らを受け入れる余裕などなかった。当然、土地争いは激化。これがきっかけとなり「倭国は大いに乱れた」のではないでしょうか。

大陸からのボートピープルは、対馬海流に乗り、日本海側、主に北九州・山陰・北陸などに漂着します。もちろん大半の難民は海に没してしまったことでしょうが。
特に北九州地域は、平野があってもそのほとんどは森林密集地なので、耕作面積が狭く、大きなクニとしてなかなか発達しませんでした。ですので、中小国が乱立する地域だったと思います。
それに比べ出雲地域は、このときすでに四隅突出型墳墓と鉄器を持つ大きな王国が成立していました。したがって難民にとっては、出雲より北九州のほうが目立つことなく、山野に侵入しやすかったのではないかと思われます。

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ちなみに畿内では、この時期ほとんど戦乱の跡がみられません。特に邪馬台国の最有力候補地である奈良盆地では、鉄がまったくというほど出土していません。銅鐸文化が最盛期を迎えており、鉄文化はまだほとんど入ってきていませんでした。最新武器のなかった畿内では、少なくとも「倭国大乱」といった大きな戦乱は無かったようです。
となると、「倭国大乱」と呼ばれる混乱があったのは、北九州一帯のことではないか?と推定できます。次のグラフをご覧ください。

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これは県別に、弥生後期の鉄の鏃(やじり)の出土数をあらわしたものです。このように鉄鏃が出土するのは、圧倒的に福岡・熊本・大分県です。

鉄鏃とはほかの鉄武器と違って、使い捨てになりやすい武器です。鉄は貴重品なのでふつう捨てることはないのですが、この鏃は、戦場で使ってしまうとどこに射たのか探さなければならず、持って帰ることは困難です。ですのでそんな理由から、他の鉄武器よりも鉄鏃の出土分布は、そこに戦闘があったとする有力な証拠になりえるのです。

話を戻しましょう。
「倭国大乱」が北九州一帯を中心とした地域に起こったとします。
戦乱が激化し、さらに難民が押し寄せてくる危険性を感じた時、九州諸国の王たちはどんな対策をとったでしょうか?考えてみてください。
ちなみにこの2世紀後半の国内情勢は、山陰~北陸に広大な出雲王国が築かれており、吉備でも瀬戸内海の王が勢力をはり、畿内ではまだクニには至らない銅鐸の村々が多数存在していました。
ここで九州の王たちが出した結論とは何か?
「お互い手を結び、連合国を作ること」だった。
そう、小国だけでは対抗し得ない状況だったのです。そこでクニどおしの戦いなどやめ、ひとりの王を立て連合国家にし、海外からの外敵はもちろん、国内の出雲や吉備などの勢力に負けないよう対抗しようではないか、と。そう考えたに違いありません。
とは言え、ひとりの「王」を誰にするか、並大抵なことでは決まりませんよね。
じゃあどうしたか?
そこで、いよいよ卑弥呼の登場です。


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