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地方銘菓で糖分を 午後3時のミステリー  「萩の月」編

友部理子(26)はカフェや喫茶店が大好き。スウィーツ大好き。地方銘菓が
大好き!そしてお茶の時間を愛している。
そんな彼女がアシスタントを務める、世田谷の小さなデザイン事務所「羊進円」社長の伊藤(45)、デザイナーの中野(36)、八木(32)、桜井(28)
の男四人と無愛想な経理の女性、石井(34)。
皆独身で、皆変人。決して、仲がいいわけでもない。ただ、唯一の共通点は皆、
甘いものが大好き。
そんな「羊進円」に毎回、地方銘菓が差し入れされる。
甘味を巡って、事務所内で蠢く人間模様。理子の恋愛が始まる?
そんでもって理想のお仕事とは?
甘いものを巡る、甘くない恋愛&お仕事小説。


白いカップにコーヒーを注ぐたびに、理子は心にトゲのようなものが刺さる。
表面はつるんとしてやけにツヤっぽい薄い陶器で、見るからに安っぽい。
きっと百円ショップか何かで買ったのだろう。
経理の石井さんに聞いたらそれは当たりで、二年前に十セットを百円ショップで
買ってきたが、割れたり欠けたりして、残ったのがこの六セットだという。
ちなみにソーサーは一枚多くて七枚ある。
来客用なのでこのコーヒーカップの稼働は週に二、三回といったところだろう。
そうだとしても、この事務所のスタッフも来客と一緒に打ち合わせで同じカップ
を使うのに。カップ一つでコーヒーの味は変わるのに、と理子は心の中がモヤモヤする。

コーヒーを注いだその安物のカップとソーサーをトレーに三客並べ、
こぼれないように気をつけながら理子は隣の会議室に運んだ。
会議室といっても八平米ほどの狭い空間にダイニングテーブルとパイプ椅子が
肩身狭そうに並んでいるだけだ。
クライアントの中年男性と、その向かいに座る社長の伊藤さん、クライアントに
説明している桜井さん。その前に理子はコーヒーをそっと置いた。
小太りで毛髪の寂しいクライアントの男性が、理子に「ありがとう」と軽く頭を
下げる。
会議室から戻ってきた理子にデスクの前で貧乏ゆすりをしていた中野さんが
「理子ちゃーん、俺にもコーヒーついでに入れて」 
と、声をかける。「あ、はい」と答えながら理子は心の中でため息をついた。
 アシスタントとはいえ、自分がやっているのはほぼ雑用業務だ。
いつになったら商品企画やデザインの仕事をさせて貰えるのだろう。
そう思いながら中野さんのマグカップにコーヒーを注いだ。

理子がアシスタントを務める「羊進円」は、世田谷の桜新町にある古いマンションの一室をオフィスにしたデザイン事務所である。
 オフィスといっても2DKで、一間をスタッフ達が作業をするフロア、その隣の一間を会議室に使っている。
 羊進円のホームページには『文房具、グッズの企画開発 デザイン』と書いてある。
 そこに載っていたアシスタント募集の告知を見て理子は応募したのだ。
 しかし、実際は文房具といっても、ロフトで売っているようなお洒落なものではなく、主に企業の「創業○周年記念」などで記念に配る文房具や、イベントで配布するノベルティグッズをデザインして作っている。
以前は自社でマスキングテープや付箋を作っていたが、今はなぜかやめてしまったのだ。

「理子ちゃん、このコーヒー、煮詰まってるじゃん」

 中野さんがマグカップを手に苦い表情を浮かべる。
そのマグカップは昭和の有名なロボットアニメのキャラクターがプリントされたものだった。中野さん曰く、かなりレアなマグカップでネットでは数万の価値があるという。三十六にもなって子供っぽい趣味だなと理子は呆れてしまう。
だから未だに独身なのだ、なんて意地悪な事を考える。
しかし、この中野さんが事務所で一番の売れっ子だから、不思議なものだ。
 でも中野さんだけではない。「羊進円」に所属する五人は皆、独身なのだ。 
四十五歳の社長の伊藤さん、三十六歳の中野さん、三十二歳の八木さん、二十八歳の桜井さん。
面接の時、二十六歳の理子に社長が「僕は独身主義なんだけどね、他の奴らは皆、いい相手がいなくて独身なのよ。理子ちゃん、良かったら結婚相手に考えてあげてね。でもうちは一応、社内恋愛は禁止だからね。付き合うなら事務所をやめてね」
なんだそれは。付き合っていいのか、悪いのか。
理子は頭の中がパニックになった。
と、同時に彼氏いない歴が三年で、アラサーになった理子は結婚を前提にした彼氏が欲しかったので、内心、どんな人が事務所にいるのか期待していた。

しかし、働き始めて一ヶ月が過ぎ、その期待は泡と消えた。
羊進円のスタッフは皆、変わった人ばかりだからだ。
「理子さんさ、領収書ある?あったらすぐ出してね」
 経理の石井さんが無表情で理子に声をかける。唯一デザイナー採用でない石井さんは三十四歳、独身。いつもジーンズに青いチェックのシャツを着て、髪はボサボサでノーメイク。スカートを履いたところを理子は見たことがない。
 他のスタッフには笑顔だが、理子には笑顔を見せない。理子も気まずいので必要最低限な事以外は石井さんに話しかけないでいた。
理子が羊進円に入るまで、石井さんは唯一の女性スタッフだったから、紅一点の
ポジションではなくなって、面白くないのだろうと理子は思っている。
 そんな石井さんが使っているマグカップは以前、ある学習塾の卒業生に送る 
グッズとして羊進円が昔、作ったものだった。
表に鉛筆マークのキャラと『祝 卒業』とゴシックフォントでプリントされて  おり、お世辞にも可愛いとは思えない。というかひどい。
石井さんは多分「使えれば何でもいい」という考えなのだろう。
そんな石井さんは、社長が十年前に羊進円を作った頃からいる、唯一の創業メンバーなのである。
「奥のお客さんて、毎年来ている仙台の?」
 中野さんが石井さんに聞くと「そ」と無表情で一文字だけで答える。
中野さんは石井さんより二つ年上だが、理子から見たら部下のようだった。
それほど羊進円のスタッフは皆、石井さんに一目置いているのだ。
それもそうだ。石井さんの機嫌一つで経費として落ちるか落ちないかが決まって
しまう。やはり、財布を握られているのは弱いのだ。

会議室のドアが開く音がして、三人の廊下を歩いてくる足音が近づいてくる。
「お邪魔しましたー」
 クライアントが作業フロアの入り口に顔を出して目を細める。
 スタッフ一同、頭を下げる。「じゃ、僕、ちょっと品川まで送っていくから」
と社長が声をかけてクライアントと一緒に外に出て行った。
 桜井さんが手にした紙袋を理子に渡した。
「これ、差し入れに貰ったから。理子ちゃん、配って」
 受け取った理子は、紙袋の中から箱を取り出す。
「菓匠三全 仙台銘菓 萩の月」とある。
「わ、萩の月だ!」
 思わず声に出してしまった。
「子供じゃないんだから」
 桜井さんが苦笑する。
「関野さんの差し入れって、いつも萩の月だよね。まあ、仙台から来てるからテッパン土産だけど」
 石井さんが言った。 
「たまには牛タン弁当とか、ずんだ餅とか変化球が欲しいよなー」
 中野さんがパソコンのデスクトップ画面を見つめながらこぼす。
「関野さんて、毎年、ビニールファイルとメモパッドのデザインを発注される方ですよね?社長と地元が一緒の」
 ずっと黙っていた八木さんが回転椅子ごと振り返り、無表情で言った。
八木さんは黒フレームの眼鏡をかけていて、何を考えているかよく分からないが、理子を始め誰に対しても態度は丁寧で一定だった。
「そうそう。社長とは学生時代からの長い付き合いなの。だから挨拶兼ねてわざわざ仕事を頼んでくれるんだよ」
「今年はビニールファイルとメモパッドだけでなく、プラス、エコバッグが加わりました。ノベルティでお客様にプレゼントとかで」
 桜井さんが作り笑顔で石井さんに答える。その目が笑っていない。
桜井さんは羊進円のメンバーの中で驚くほど愛想がいい。
羊進円に来る前は、健康食品の営業をしていたそうだ。
その愛想とコミュ力を買われて、クライアントとの打ち合わせに社長が良く

席させている。
「そのエコバック、桜井が担当するの?」
石井さんの質問に「もちろんす!」と桜井さんが笑顔で答える。
「桜井、正念場だな。ここで変なもの作ったら大口クライアント逃す訳だから」
 中野さんが意地悪な笑みを浮かべて桜井さんにはっぱをかける。
「プレッシャーかけないで下さい」
 桜井さんが笑顔で自分のデスクに戻る。

理子は皆の会話など頭の中を素通りして、うっとりしながら箱の包み紙を開けて
いく。
地方銘菓の王者、萩の月。
箱の蓋を開けると、中に小さな箱が八つ並んでいる。
ボックス イン ボックス。
これが萩の月が他の地方銘菓と比べて少し格上をアピールしているところだと理子は思う。
小さな箱に描かれた着物姿の女性がうっすらと笑顔を浮かべている。しかし、
その視線は理子に向けておらず、少し外しているのが奥ゆかしい。
理子はスタッフ、一人一人のデスクに萩の月の箱を置いていく。
残った三つを冷蔵庫の中に入れた。萩の月は冷やしてもクリーム部位が少し硬くなって美味しいのだ。
果たして自分はどう食べようか。
家に戻ってから美味しいコーヒーをハンドドリップで入れてゆっくり頂こうか。
それとも緑茶がいいかなあ。そのまま食べてもいいけど、凍らせて食べると、
卵の味が濃いテイストのアイスクリームのようで美味しいのだ。

 理子は萩の月の箱をそっと自分のデスクの片隅に置いた。

「萩の月って、一つ一つ箱に入っていてさ、過剰包装だよな」
 信じられない言葉に振り返った理子は信じられない光景を目にした。
 中野さんが渡されたそばから、萩の月を箱から取り出し、大口で齧るように
食べだしているのだ。
まるでスナック菓子を食べるように、あっという間に全部、口の中に入れて
飲み込んでしまった。
その間、三秒。
犬のような早食い。「味わう」という感覚が中野さんにはないようだった。
勿体無いなあ。ちゃんとお茶を入れて大事に食べればいいのに。
だって萩の月は東京では売ってない。たまにデパートの催事でしか扱ってない
希少なお菓子なのだ。
 理子はどうしても萩の月が食べたくなって、東京駅に買いに行った事がある。
東京駅には日本全国の美味しいものが集まっているから、てっきり萩の月の手に入るだろうと思っていた。
 しかし、東京駅の菓子メーカー「菓匠三全」のお店では、「萩の月」は売っていないという衝撃の事実を目の当たりにした。
唯一、他のお菓子と盛り合わせのセットの中に二つだけ「萩の月」が入っている
商品があった。萩の月二つの為に、盛り合わせセットを買う贅沢は、
東京で一人暮らしを始めてまだ一年の理子には出来なくて、泣く泣く諦めたのだ。

 そんな事、中野さんは知らないんだろうなと、雑な食べ方を見て思う。

「箱なしの萩の月も売ってますよ。その分、ちょっとだけ料金が安いの。俺、昔、仙台駅で見たことあります」
「ふーん」
 桜井さんの話に中野さんは興味なさそうに聞いて、煮詰まっていると理子に文句を言ったコーヒーを一気に飲み干す。
わかってない。
この男、いや中野さんは分かってないとリコは思った。

萩の月は、一つ一つが箱の中に入っているのが尊いのだ。
お土産で貰った地方銘菓をその場で食べず、家に持って帰る女子も多い。
バッグの中に入れると、家に帰った頃にバッグの中で泳いでいるからか、
潰れている事が多い。餡子やクリームがはみ出していたり、クッキーだと粉々になっていたり。それを見た時のガッカリぶりとは。
地方銘菓の魅力の一つは見た目である。それを損なわれたら味が半減だ。
萩の月は、一つ一つが箱に入っている事で、その脅威から免れていると理子は思う。

「それと萩の月のアウトレット商品っていうのがあるんですよ」
「アウトレット?」
 思わず頭のてっぺんから理子は声を出してしまう。そんなの初耳だ。
「この『萩の月』を作ってるお菓子メーカーの工場があって、そこで製造過程で
ダメになった萩の月を安く売ってるんですよ」 
 桜井さんが萩の月を小さく契りながら食べている。
「この中身のクリームとか飛び出ちゃった奴とか。味は全然変わらないけど、
『萩の月パンク』って名前つけて売ってるらしいですよ」
 萩の月パンク…。工場という名の人生のラインから外れ、非行の道に走り、
着物から大量のスタッズがついた革ジャンに着替えた女の人を想像してしまう。
桜井さんは食べ終わった萩の月の箱をグチャッと潰してゴミ箱に投げる。
理子はまたしても驚く。萩の月の箱を軽々しく捨てるなんて。
理子はお菓子の包み紙やパッケージを大事に大事にとっておいてある。
だってそれだけで一つのアート作品のようではないか。


と、そこに「ただいま〜」と社長が戻ってきた。
「理子ちゃん、コーヒー入れて。萩の月と一緒に会議室まで持ってきて。
打ち合わせしよ」
「え?あ、はい」
 打ち合わせって何だろう。理子がコーヒーメーカーに新しく豆をセットしようとすると…
「桜井!」
という怒鳴り声を背後に聞いて驚いて振り返る。
「はい?」
 桜井さんが社長の剣幕に驚いて真顔で答える。
「なんでお前は名刺を財布の中に入れてるんだ?それでもお前はデザイナーか?
俺に恥をかかせやがって!」
 いつもの和やかな社長と打って変わってヒステリックな態度。
そう、羊進円の社長である伊藤。ついさっきまでニコヤカにしていたと思ったら、いきなりキレる山の天気のような変化の激しい感情を持っている。
まるでジキルとハイド。
 理子は最初、驚いて羊進円で働き始めた事を後悔したが、怒りが通り過ぎると
ケロリとニコヤカになって後腐れはない。スタッフ達もあまり重く受け止めてい
ないようだった。
「いや、俺、ミニマリストなんで。名刺入れは持たない主義なんです」
「デザイナーがミニマリストを売りにするな!センスない奴がミニマリストになるんだよ。ちゃんと持てよ、名刺入れ、お前持てよ。あ、これ、パワハラ?俺、パワハラしてる?」
 めちゃめちゃパワハラしてる。
そう思う理子だったが、もちろん口には出さない。
「分かりましたよー」
 社長に怒鳴られた桜井は慣れっこなのか、流すように答える。
「ち」
 分かりやすい舌打ちをして、社長は会議室に入っていった。

コーヒーを再び安物カップに注ぎながら、理子はこの後、
会議室に入るのは地獄だな…と気が重かった。
しかし、いざ、コーヒーを持って会議室に入ると、社長が満面の笑みで理子を迎えてくれる。
「おー、萩の月を待っていたよー」
 この変わり身の早さ。さっき目を三角にして桜井さんに怒鳴っていたのは、
 幻だったのかと理子は頭の中がクラクラする。
「理子ちゃんは『萩の月』もう食べちゃったの?」
 理子がコーヒーだけなので、社長は不思議そうな顔で聞いた。
「私は家に持って帰って食べようと思いまして」
 社長は一瞬、目が点になり大笑いする。
「そんなの、もう一個食べればいいじゃない。余ってるでしょ?」
 確かに頂いた萩の月は八個入りなので、羊進円のメンバー全員に行き渡った後は二つ余る事になる。
「でも、それは新たに事務所を訪ねてくるクライアントにお出しするものなんじゃ…」
 そう言う理子に「それは来た時に考えればいいんだよ。この辺、洋菓子店いっぱいあるんだから。うちは、大して儲かってないけど、そこまで経費使えない訳じゃないからね」と呆れた調子で言いながら、社長は箱から萩の月を取り出してビニール袋を開ける。
「いえ、せっかくですけど、私はコーヒーだけで」
 萩の月のような地方銘菓は一日に、二つ三つ食べるものではない。
 たった一つだけだから尊いのだ。
 まずは地方銘菓と一緒に味わった時、マリアージュが生まれるような飲み物を
用意する。
パッケージを愛でて、期待値が上げていく。そっと袋を開けてお菓子自体の形をまた愛でる。そして一口頂き、甘さの質、食感、風味を全身で堪能しながら、飲み物を一口含み風味を倍増させる。 

そう。地方銘菓を味わうという事は、一つの儀式なのだ。
食べ終わった後「ああ、もう一つ食べたいな」と後引く思いを残す。
その余韻が良いのだ。

嗚呼、早く帰ってコーヒーを入れて萩の月食べたいよ!

「どう?うちに来て一ヶ月になるけど、仕事は慣れた?」
 社長の言葉で、うっとり妄想中の理子は現実に引きずり戻される。
見ると、社長の萩の月は既に咀嚼されて社長の体内におさまっているようだった。
 はや!理子は驚く。
「そうですね。でも、皆さんの役に立っているか、正直まだよく分からなくて」
「うちの奴ら、変わってるからねー」
 それは社長もですよ、という言葉を理子は慌てて飲み込んだ。
「萩の月、美味しい!まだ余ってる?もう一個食べたい!」
 社長はにこやかに言う。
「え、あ、はい…」
 あまりにも大人気ない申し出に理子は虚を突かれるが、キッチンの冷蔵庫の中
から残った二箱のうちの一箱を取って、再び会議室に戻った。
「ありがとうー。久々に食べるとうまいよね」
  社長は二つ目もあっという間に食べてしまう。
「社長は出身、仙台なんですよね?」
「そうそう。でも地元にいる時はこういうのって、さしてありがたみも感じない
ものなんだよね」
そうかもしれない。
スカイツリーの近所に住む人はスカイツリーに滅多に登らないように。
「じゃあ、やりたい事はある?」
「それはもちろん、デザインの仕事がやりたいです」
「まあ、それはおいおいね」
 社長はニコニコして言う。おいおいとはいつの事なのだろう。
「とりあえずさ、やってみたい事、作ってみたいもの、まとめて今度みせて」
「あ、はい」
 採用されるのかなあ。でも、チャンスはチャンスだと理子は思う。
「他、うちの事務所で気になる事ある?改善点っていうかさ」
「うーん」
 全部です。と答えそうなところを理子は慌てて飲み込む。
「コーヒーカップ…」
「え?」
「来客用のコーヒーカップ…」
「ん?」
「皆さんが個人的に使ってるカップはいいと思うんですよ。でも、来客用に出すカップがあまりにも百均丸出しっていうか、安っぽいっていうか…」
 ピンときてない社長に理子は尚も続ける。
「ほら、さっき桜井さんに名刺入れの件で社長も言ってたじゃないですか。
デザイン事務所のコーヒーカップが百均ていうのはちょっと。
カップが素敵だとコーヒーの味も美味しく感じますよ!」
「理子ちゃん、コーヒー好きなわけ?」
「はい。たまに自宅では豆から挽いてハンドドリップで入れたりするんです。
休みの日はよくコーヒーの美味しいお店に行ったりして味を比べたり」
 社長はニコニコと目を細めて「じゃあさ」と口を開く。
「理子ちゃんを羊進円のカフェ係に任命するよ」
「は?」
「事務所の経費でハンドドリップ用のセットとか、コーヒー豆とか買って美味しいお茶入れてよ。あと、そんなに来客用のコーヒーカップが気になるならそれも
事務所の経費で買っていいよ。石井に言ってよ」
「え、あ、はあ…」
「うちの事務所の福利厚生の充実は理子ちゃんにかかってるよ!よろしくね!」
 なんだそれ。曖昧な笑顔を浮かべて理子は会議室をあとにする。
打ち合わせってこれ?
デザインの仕事じゃなくって、余計な仕事を増やしてしまったような…。

判然としないまま、作業フロアに戻ってきた理子は自分のデスクの前に座る。
とりあえず、商品企画をまとめて、カフェに必要な商品をいくつかあげて石井さんに予算を相談するか。
理子はメモ帳を取り出して書き出す。
理子はスマホにあまり記録しない。アナログなものが好きなのだ。
 書き終わったメモ帳と一緒に、デスクの上に置いていた萩の月もトートバック
しまおうと手に取った瞬間、あれ?と理子は手が止まった。
 萩の月の箱が軽いのだ。
 慌てて箱の中を開けてみると中は空だった。
どういう事?
びっくりして理子はしばし止まってしまった。
え?誰か、取り出して食べたって事?
え、まさか…そんな、いい年してそんな…。いや、でも…。
理子は振り返って作業フロアにいるスタッフを見る。
皆、各々、作業をしている。
 石井さんは理子が配った時、すぐにバッグの中に入れた。石井さんは糖質制限をしていて、積極的に甘いものを食べていない事を理子は知っている。
中野さんはさっき萩の月を犬のように一気喰いしてしまったから、あの調子でもう一つ食べてしまった可能性はある。
桜井さんはやけに萩の月情報に詳しかったから、好物なんだろうなあ。
 八木さんを見るとベランダに出てタバコを吸っているようだった。でもデスクの上には萩の月の箱があった。未だに食べていないようであった。
 という事は、犯人は中野さんか桜井さん…?
って、私ってば人を疑って最低だと理子は一瞬、反省する。
でも、実際に箱の中は空だからなあ。

理子は一度、心を落ち着けようとキッチンへ行き、冷蔵庫の中を開ける。
すると、最後の一箱がなくなっている。思わず「あ」と理子は声をあげてしまう。
 その声にスタッフ一同、理子の方を見る。
「どうしたの?」
 石井さんが声をかける。
「あ、いえ。残り二つの萩の月がなくなってて。社長が食べてあと一つ残ってた
 はずだったんですけど」 
「あ、俺、食べちゃったよ」
 そう答えたのは桜井だった。
「え!?」 
「え、食べたかった?でも理子ちゃん、まだ食べてないじゃん」
 桜井が理子のデスクの上にある萩の月の箱を指差す。
 でも、その中は空っぽなんですけど。
理子は全くもって解せない。
「ごめんね、これ、欲しかったの」
 桜井、萩の月の箱を見せる。
「さっき捨てちゃったからさ」
「なんで?」
 中野さんが真顔で桜井さんに聞く。
「私、羊進円の桜井と申します」
桜井さんはおもむろに立ち上がり、中野さんに向かって萩の月の箱を開けて名刺を取り出した。
「はあ?」
 中野さんが呆気にとられる。
「この箱、名刺入れにしようと思いまして。これならクライアントの受けもいいとじゃないですか」
「あんたね、クライアントが菓子メーカーだったらどうすんのよ?」
「それはケースバイケースで使ったり、使わなかったりですよ」
 理子は三人の話を脱力しながら聞いていた。
変な人だなあ。うちの事務所の人たち。
でも、とりあえず桜井さんが容疑者ではなくなった訳だ。
じゃあ、一体、誰が?

 理子は机の上に置かれた空の箱を手にした瞬間「わ!」と思わず落として
 立ち上がる。
 皆、驚いた表情で一斉に理子を見る。
 空だった箱が重いのだ。理子は恐る恐る蓋を開ける。
「は、入ってる!」
 なくなっている萩の月が再び戻っていたのだ。
一体、これはどういうこと?たった数分のうちに何が起こったのか?
萩の月、神隠し現象。
「そりゃ入ってるだろ」
「え、それってギャグ?」
 中野さんと桜井さんが理子を見て言う。訝しげな表情だった。
「あ、いや。でも、さっきはなかったから…」
 理子は尻つぼみ気味に答えが「あ、なんでもないです。すいません、忘れてください」
と、作り笑いを浮かべて坐り直す。どうなってるの? 
理子は萩の月の箱をトートバッグの中に入れる。
そして腕組みをして考える。
何、このミステリー。
どんなトリック?
誰が犯人?
ただのいたずら?
もしかしてアガサクリスティの「オリエント急行殺人事件」のように、この事務所の人間が皆、犯人?
でも、何の為に?
私の萩の月の中身を抜き、再び戻す。それに一体何の意味が?
もしかして、何かの儀式?
皆、変人だから可能性はある。
私ったら、とんでもない事務所に入ってしまったのかしら。。
私の人生、どうなっちゃうの。。
パニックの理子の瞳に涙が浮かんでくる。そんな理子の腕にボールペンで突く感触があった。振り返ると八木だった。八木が無表情でボールペンで理子の腕をつついていたのだ。
「な、なんですか?」
「これ」
 八木がスマホ画面を見せてくる。それは、羊進円のインスタのアカウントだった。八木が担当しているのだ。
『先ほど、クライアント様から仙台銘菓萩の月を頂きました。スタッフ一同、美味しく頂きました。後半戦、仕事、頑張ります』
という投稿と一緒にベランダのテーブルの上に置かれた萩の月の箱と、ビニール袋に入った萩の月の写真の二枚が、投稿されている。
「自分の食べてから気付いちゃって。さっき友部さんの萩の月の中身、
 勝手に借りてベランダで撮ったの。撮って戻しておいた」
「え?」
「一言、言っておこうと思って。事後承諾でごめん」
 そう言って、八木は自分のデスクに戻った。
理子は唖然となる。
本当に変わった人達だ。誰一人、普通の人がいない。
普通の人、それは私だ。

自分のスマホで羊進円のインスタアカウントを見る。
フォロワー数は29人。全部、仕事関係者らしきアカウント。
デザイン事務所のインスタにはあるまじき、デザイン性皆無の
記録的な萩の月の写真。しずる感も皆無。
それはそれで、理子には新鮮に感じた。(続く)


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