【書評】『学びの還流「書くこと」を基点にした「学習者の学び」と「指導者の学び」』:萱のり子編著
今回は、三元社から出版された萱のり子編著『学びの還流「書くこと」を基点にした「学習者の学び」と「指導者の学び」』についてレビューしていきたいと思います。
本書は、奈良教育大学教授である萱氏を含む書写・書道教育に携わる指導者11名の教育実践集です。
本の帯には、このような言葉が書かれています。
本書は、【書写書道教育】に焦点を当て、「なぜ現代において書を学ぶのか」という難題に挑んでいます。
世の中に出回っている「書の本」とはどういうものでしょうか。多くの人が、法帖、お手本集、作品制作の仕方、名蹟の解説集など、作品をメインにしたものを思い浮かべると思います。
しかし、この本が目指しているのは、読者がこれを読んだあとにより良い作品を完成させることではありません。
ことを目的としています。
「書の学びとはどうあるべきなのか」
「現代においてどのような実践が求められているのか」
という正解のない問いを11名の書写・書道教育に携わる指導者が実践を通して模索、提案しています。
実践の内容、場面などもバラエティーに富んだものになっており、それぞれの実践から、書写・書道教育の可能性に気付かされます。
今回は、本書から、書写・書道教育の未来について考えてみたいと思います。
1 実践をとおした「指導者の気づき」
本書は、「学習者の学び」よりも、「指導者の学び」をメインにしています。学校教育でも民間教育でも指導者自身が常に自分を振り返り、指導者自身の学習観をアップデートさせていくことは、指導者自身の成長にも繋がります。本文の中でも、実践者の「気づき」がそこかしこに見て取れます。
このように、実践者自身がこれまでの教育活動を振り返りつつ、現代における書写・書道教育の意義について語られています。指導者自身の書に対する捉え方をみることができる稀有な一冊です。
富川氏の提言は、GIGAスクール構想を敷いた教育現場では今まさに起こっている事象です。教育現場だけでなく、社会全体の風潮なのかもしれません。ドラえもんのような存在のChromebook(インターネット)は、時として私たちに当事者意識を育てないように振る舞います。「対峙しているようでしていない」「向き合っているようで向き合えていない」というのは現代の病なのかもしれません。
中村氏の提言は、現代の書の世界を牛耳る【造形主義】に一石を投じるものだと思います。言葉とともに洗練されてきた書の歴史を踏まえ、「書は言葉とともにある」という大前提を思い起こさせてくれます。本書では定番教材の「蘭亭序」を取り上げ、その文学的叙述が現代の【令和】にまで影響を及ぼしていることを授業で扱います。
2 書を基点とした他分野への広がり
冒頭で紹介したとおり、本書は、書と他分野へのつながりを再構築し、実践をとおしてその有効性について語っています。
・文学、国語
・社会、宗教、思想
・美術、自然
など、多くの分野とつながりを再認識できます。
実践者も、書を軸に活動しながら、教育現場では国語も教えたり小学校の先生としてさまざまな教科を教えたりしているようです。
学校教育の現場でも、民間・生涯教育の現場でもその「教育観」は常に変化しています。
学校現場では、学習指導要領が法的拘束力をもち、ある程度の基準を提示するものの、それが「どこから、どういう理由で、なんのために、どういう歴史的系譜を経て」編纂されているのか意識がされていません。学習指導要領の舵は、振れ幅も大きく、現場が一貫性をもって指導・評価にあたることが困難になっていることもあります。
本書の序章で萱氏は
とし、指導者の学び(書の捉え方・考え方の変換)の重要性、について検討しています。学習者の学びという教育において重要なテーマの裏には、指導者の学びが確実に存在します。
現代の書という文化は、書道という言葉になった途端、「師弟」というニュアンスが全面に押し出され、お互いが硬直してしまいがちです。そのせいで、「目の前にいる師匠、弟子」しか見えなくなり、歴史、文学などの他の分野や背景に視点を移すのが難しくなるのかもしれません。
書の指導者において通底する学び観とは何か。
本書は、科研の成果の一部であり、まだ研究は続くようです。今後の動向に注目しつつ、書に携わるものとして、私自身もブラッシュアップしていきたいと思います。
書の世界は複雑で、さまざまな分野につながっています。
‐書の奥深さ、すべての人に‐
&書【andsyo】でした。