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愛読書「カフカ」とか言うヤツ
昭和だろ?
それくらいの古典なんてありがたがるのは硬直した化石脳。
大昔の価値観だ。
賢い演技のツールだろ?
尖ったフリをしたいだけ。
ならどういう風に好きなの?
言語化できるの?
「自分の言葉」で。
無理に決まってるんだよ、バカだし。
ワザワザ自分に下駄を履かせて芝居をスンナと。
そんなテクスチャ、すぐにボロが出るだけ。
ウソでウソを塗り固めるハメになる。
五十路の幼児が背伸びすんなと。
丸尾末広だのガロだのと・・
コイツ俺が花輪和一持って行った時に、見向きもしなかったやろが。
30過ぎてから後付けの都合のいい見栄のブランディングで、
「キャラを作るな!!」
と。
知ったかぶりにもほどがある。
例えばクトゥルフ神話なんてのは、体系化してから面白くなった。
つまり、ラブクラフトの二次創作が面白いのであって、
後輩のブラックウッドの小説の方がエンタメ性は高い。
クトゥルフ神話が定着したのは単なる見栄、
AKBの様な関係性ビジネスとかコレクター心理を突いたからだ。
はい寄れニャル子なんて、記号だけ引っ張ってきた中二作品、
全くクトゥルフ要素が無く、「リング」の方がむしろクトゥルフ的だ。
内容にアイコンが一致しておらず、ひねりが無さすぎる。
自分は中一の時、エドガーアランポーを読んで、
文字は小さいし、表現が小難しく回りくどくて辟易した記憶がある。
古典なんてそんなもん。
そもそもあの時点で既に時代背景が変化しており、
しかもそれが「海外」の小説なら、文化背景までの造詣が前提となる。
鬱蒼とした森の恐怖は、街灯に照らされた現代じゃしっくりこない。
執筆当時とニュアンスが変化しているのだ。
つまり、古典なんてのはバックグラウンド分析して楽しむもんで、
自信満々にタイトルだけ出してかっこつけてるアホとかみっともない。
「カフカ」に幼稚な自分を引っ張り上げてもらおうとスンナ。
知ったかぶってカフカのブランドを出す前に、
「やなせたかし」に引っ張り上げてもらえ。
脳みそ空っぽのくせに賢そうな演技が上手いだけのアホ。
チンパンジーの落書きだ。
エンタメの価値観、作家性は進化を続け、
一部のラノベ作家の方がかつての有名文学よりクオリティが高い。
そしてそういうのを見極めるのは読者である個人個人だ。
文学作品なんて過去の評価と現在の評価は別であり、
現在のラノベが半世紀後古典文学として扱われる可能性だってある。
進撃の巨人なんてのはエンタメ以上に思想であり哲学だろうし、
「アニメだから」
「漫画だから」
「オタク分野だから」
という線引きは存在しない。
他人の見出した価値観にちゃっかり便乗するならカルトであって、
権威主義であって、松果体の機能しない暗記人間の証。
クリエイターに向いてない。
ペテン師はいい加減子供だましを辞めろ。
キモチワルイヤツ・・
おわり