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【こうなるぞ】”運動しない”、”喫煙”、夜更かし、ゲーム、スマホ三昧の”習慣”をやめなければいけない戒めの語り『体験談』※執筆途中

はじめに


みなさんこんにちは。もしくはこんばんは。

私は小説家ではないので本当に自分語りになっていて稚拙な文章になっていると思いますがご了承ください。

この記事を見ていただいた方の多くは、タイトルにある喫煙・ゲーム・スマホといった安易に快楽を求められる嗜好品に少なからず囚われている人なのではないでしょうか。

そして、その快楽を得ようとしている習慣がどんな悪影響があるというのか?ということに少しでも興味を持った人なのではないかと思います。

今から私が語る内容を読み終わった人はおそらく2極化すると思います。

『私はあなたではないからそうなるわけないじゃんw』
と思う人。

『この習慣はやっぱり止めないといけない。』
と感じて行動に移す人。

個人的には絶対的に後者であってほしいとは思いますが、
多くの人は前者のようにただ読むだけの人がほとんどであることは言うまでもないと思います。

私は後者のように今の自分を変えようと思って実行できる人に響く文章になればよいなと思って、見ているのも痛々しい経験談を語りたいと思います。


注意事項

この記事にはとても暗い表現が含まれます。

筆者の体験には希死念慮願望があったことなどが描かれています。
心の弱い方、共感力が高い人は閲覧にご注意下さい。


自己紹介

私の性格と生い立ちと略歴


子供のころは団地で両親と2人の兄姉と暮らす末っ子でした。

引っ込み思案で、積極的に自分から何かをしようとはしなかった陰キャな人物像だったと今でも思い返します。

小中高ではこの性格が災いしてか、いじめを受ける経験をします。
そんな僕でも付き合ってくれる友達を大事にして、付き合ってくれる子だけと仲良くして”一人ではない”という環境がまだ僕を生かせてくれていたと思います。

気づいたころには大学に進学するのではなく、情報系の専門学校に進んでいました。

純粋に自分はすごい奴になるんだと夢見がちな平均的なやつで、やろうとしたことは案外簡単にこなせてしまうと思ってしまうような、”そう思わされているだけ”ということに対して変に勘違いしていた馬鹿野郎でした。

そんな奴はたいてい皆さんもわかると思うのですが、自分は優秀なんだと思い込みが激しい奴ほど周りと差を付けようと努力をしません。

その結果、当たり前ですが何も為せず、気づけば今年で32歳になってしまいました。

これでも情報工学の専門学校を4年も履修して卒業した実績があります。
ですが、在学中はさっきも言った通りやろうと思えばやれるから~と勉学にいそしむよりかは遊びやアルバイトに勤しんでいるような勘違い野郎でした。

この時、20歳になってからコミュニケーション能力を鍛えたい・人と仲良くなりたいと思うようになった私は何を考えたのかタバコを吸い始めます

これがこの後どういう結果をもたらすのかを知らずに。

当時はまだタバコを吸っている奴はカッコイイという空気がまだ一部あり、タバコは百害あって一利なし!という声と拮抗していたような気がします。

自分が身を置いている場所がそういう人が多かっただけかもしれませんが。

喫煙所で他愛ないコミュニケーションをするためのツールとして活用している人が多い時代でした。

吸い始めたころは煙にむせてつらかったけれども、数日続けているとどこかのタイミングでもやもやな頭の中がクリアになって、活発的な性格になれたと気持ちよく感じたのを思い出します。

小中高では気の弱い僕でしたが、タバコを吸うというちょっとワルい奴になることで、誰かよりも少し強いんだぞという自分の中の自分に課したステータスを大きくしてくれたというのもあると思います。

でも、前述したようにこれはただの気持ちの問題であり、体にはどんどん深刻な問題を蓄積していたんだと今では断言できます。

それでも、私の性格を変えてくれて、そのおかげで築けた交友関係というのは非常に当時の私にとっては生きる大きな理由でもあったとも思いますが、ほかの方法があるならば試していたほうがよかったとも思います。

学業では案の定、下から数えてどれくらいかという感じでした。
単純にコミュニケーション能力が平均より高いだけの無能。

そんな僕でも学校は縁故採用という強みを使ってくれて、大手のクレジットカード会社の子会社に新卒で就職することができました。

就職したはいいものの、アルバイトした経験をアドバンテージにしていた私は本当の社会の厳しさというのを見せつけられます。

いろいろあって半年もたたずに2か月で会社を辞めてしまいました。

今では拾ってくれた会社で、契約社員→準社員と順当に進んだものの、そこで打ち止めです。

運動もせず、惰眠をむさぼり、脳のドーパミンを欲するためにスマホゲームやスイッチ・パソコンゲームに勤しむ年収300万円の低所得者として生活しています。

最近では、体力の衰えを急に感じて、突然休みの日に寝続けていると精神に異常をきたしてしまいました。

本当は言いたくないのですが、この精神に異常をきたしたとき、本当に死のうとしていました。

もう何も自分にはない。
職場は空気が最悪。
働いても低収入。
何をやっても続かない。
このまま生きてても仕方がない。
世の中は争いばかり。
競争とそれに使われる駒としてあるだけ。
生きていても幸せになれない。
死ねば好きな漫画のように転生できるかな?

こんなことを考えた僕は自宅のマンションの非常階段に3時間くらいたたずみ、下に人がいないことを何度も確認しては決心をしようとして、決心できないを繰り返して飛び降りようと本気で思っていました。

それでも死ねなかった私は、たぶんまだ生きたいとどこかで思っているんだと感じました。

気持ちは死にたいけれども、潜在意識としては何か生きる理由があったんだなって。

乱れた生活習慣


私がやってたこと

私は喫煙者で重度のネットゲーム中毒者でロングスリーパーでした。

これを聞くと、各所からおいおいと声が上がりそうな気がします。

おそらくですが声を上げているのは30代よりももっと下の子供たちだと思います。

『大人になったらわかるよ』ってやつです。
子供のころには平気だったことが突然機能しなくなります。


会社ではシフト制で働いており、朝7時~16時、昼14時~23時、夜22時半~翌7時半の3シフト交代制です。

夜勤になると少し多くのお金をもらえるので、夜勤と夜間手当をぎりぎりもらえる昼勤務を繰り返していました。

会社ではバリバリと仕事に集中してとにかくゲーム感覚でがむしゃらに取り組んでいたように思います。

単調でめんどくさい仕事だけど、一般的な人の仕事よりは座り仕事でパソコンに向かい続けるだけなので多分楽だろう。

そして9年も同じ職場で同じ仕事をしているとなまじ業務経験だけが蓄積して他の同僚よりは少しだけ知識が多くなる。

日々、そこそこの難易度の課題と突発的に生まれるタスクを細々と淡々とこなしていくだけ。

就業時間が終われば残業もせずに即帰宅。

会社に通うのを楽にするために、会社の近くに借りた家に歩いて7分程度です。

私生活では帰宅したら即パソコンを起動して、ご飯を食べながらゲーム三昧。

時には健康に気を付けるためにと変えた電子タバコ(もちろんニコチン入り)をぷかぷかと永遠に吸い続け、おかしをボリボリ食べる。

動画を見てゲラゲラ笑って、パソコンの前に座ったら生理現象がない限りはテコでも動きません。

休みの日は夜更かしをしてお気に入りのゲームの味がしなくなるまで無限に時間を溶かし続ける。

一応、次の日が会社ならば寝る時間は最低限確保するため、翌朝に起きる8時間までにはベッドに入って就寝をする。

本当にこれだけです。


皆さんも心当たりがあるんじゃないでしょうか?

やっぱり、会社から帰ってきたら疲れているし、疲労した心身を癒すために好きな事だけに全力で取り組むこと。

まだそこに”運動する”といった体に良い行動をしてる人は良いです。

とにかくスマホやパソコンをじーっと眺めて、ソファやベッドや椅子で何か自分が好きな動画を見たりゲームをしたり。

ただ、自分へ投資をしているわけではない、単純な快楽を求める行動には必ずツケが回ってきます。


病気の発覚

知らせは突然に

私は31歳の時に大きな手術を経験しました。

前縦隔腫瘍と呼ばれる良性腫瘍の摘出手術です。

きっかけは会社の健康診断。

当時、私は健康診断の時にレントゲンで『肺の付近に影がある』という説明を受けていましたが、自分が大きな病気になるはずがないと本当に思い込んでいて再検査をせずに1年くらい放っておいてしまいました。

ところが、毎日のように咳が止まらず体調も安定しない日々が続き、これはもういかんなと病院を受診いたしました。

私が幼少期からお世話になっている二次病院に向かい、呼吸器内科で精密検査を受けました。

結果としては、前縦隔腫瘍という病気であり、胸に腫瘍があるという診断でした。

実際のCT画像
ボールペンで丸く囲っているのが腫瘍
上が胸

前縦隔というのは、ちょうど胸の肺の真ん中あたりのことを言うらしく、そこに腫瘍ができているという説明を受けたのです。

続けて先生はこうおっしゃいました。

『この腫瘍は必ず手術で摘出しなければいけない病気です。』

『それも、早急に。』

この腫瘍は、胞子のようになっており、イメージで言うといろんな膿や体の組織や汁やらが詰まっているバルーンが胸から生えているようなものです。

何かのはずみでこのバルーンが破れたりすると大変だというのです。

振り返ってみると、この説明を受けた私はなぜだか冷静でいたのを覚えています。

手術自体が手術痕の少ない形で行われやすいという事前情報や、日本の医療を信頼しているからという漠然的な考えがあったかもしれません。

もしくは、当時会社で嫌な上司・嫌な同僚というレッテルを他人につけて、自分では変えることのできない問題ばかりに苦しんでいた空間から休職することで解放されるという気持ちのほうが強かったのかもしれません。

続けて先生から告げられたのは、この病院ではロボット手術の設備がないので、若い肉体になるべく傷を残したくないのであれば、と別の病院を勧められました。

紹介されたのはロボット手術による傷が少なく済む手術ができる病院だったのですが、MRIの結果を受けて腫瘍の裏側に血管が通っており、開胸による手術が必要になるかもしれないという説明を受けました。


人生初の手術


休職の手続きや入院手続きや手術前の検査などなんだかんだしていると手術当日になっていました。

まずは手術着に着替えて、時間まで面会室で立会人の友人と歓談をして待ちます。

時間になったら看護師さんに説明されて、1階の手術室へ歩いていきます。

仰々しい大きいな扉をくぐると手術室の前では数多くの各分野のお医者さんが立ったまま手術に向けたミーティングをしていました。

この時、急に不安になりましたが、もう後戻りできないんだ・後戻りする必要なんてないよな・できないしと言い聞かせて手術台に自ら載ったのを覚えています。

手術台に載ると、麻酔科の女の人が呼吸器みたいなものを付けてきました。

これは全身麻酔の吸入器でした。

よくある手術経験談で聞いていたように本当に一瞬の出来事でした。

手術が終わって起きると、まず初めに手術台から回復用のベッドに移動されます。

起きた瞬間に呼吸が全くできずに肺に痰が溜まっているような感じがして、それを外に出す体力も気力もなく、ただただ息を吸うことができずに痛くて苦しかったのを覚えています。

『い、息ができません…苦しいです…』と助けを求めると、お医者さんは口から吸引機を肺に入れて痰と血を吸いだしてもらいました。

手術の立会人として来てくれた友人に後で聞いた話ですが、回復室から全く出てこず、この後に仕事があるにもかかわらず予定よりも5時間くらい出てこなかったらしいです。

その時に立会人である友人には本当に悪いことをしたなと思ったのですが、私の体から摘出した腫瘍を見せられて手術に関する説明を受けたとのことでした。

入院中は私を不安にさせないためか、お医者さんは一切手術の内容を手術を受けた当の本人である私には話しませんでした。

退院するときに友人から聞いたのですが、肺の一部もついでに切除したとのことでした。

その切除した肺の組織は黄色く変色しており、明らかに臓器が病んでいるような色をしていたと友人は語っていました。


手術後の体の状態


回復室で意識が戻ると病室に戻されます。

私は個室に入ることができたのですが、背中には麻酔点滴が刺さっており、腕からつながった点滴には痛み止めの麻薬も繋がっていて、体には3つの排液パイプがつながっており、人体改造手術でも受けたサイボーグのような状態でした。

ただ、この時はまだ自分の手術痕をしっかりと見る暇もないくらい衰弱していました。

それもそのはずで、とにかく止まない痛みと吐き気と呼吸の仕方を忘れたのかと思うくらいうまく呼吸ができずに、正常な状態を探すためにベッドの上で苦しんでいました。

また、点滴につながっていた痛み止めの麻薬がこれまた吐き気を催すタイプで、注入するには自分でボタンを押すタイプだったのですが、押せば痛みは薄れるけれども吐き気が増すという地獄を味わいました。

本当は手術の翌日には歩くなどしたほうが回復には良いそうなのですが、そんなことできるわけもなく、私の場合は3日4日はベッドの上で寝返りも打てずに苦しい時間を過ごしていました。

そんな私の状態を知ってか知らずか、給食のおばちゃんみたいな人が通常食が配膳してきます。

『こんにちは~、ごはんですよ~~~。どこに置きますかぁ~^^?』

とにかく吐きそうでお腹は空いているわけなく、ただただ気持ちが悪いのにこのおばちゃんは明るくご飯を食べることを勧めてきます。

結局、私はこの吐き気のせいで4日ほど食事がとれずに栄養点滴だけで過ごしていました。


入院生活での苦しみ


3日目くらいになると、さすがに食事もできないこの状態が続くのはまずいと思い、点滴につながった痛み止めのボタンを押すのをがんばってやめてみました。

すると、案外すぐにでも吐き気が収まり、4日目にはなんとか食事をとれるくらいにまではなりました。

4日目からは本格的に体を起こして、理学療法士のお兄さんと院内を散歩。

入院していたのは大学病院だったので、回診では主治医がぞろぞろと大学生を引き連れて簡単な様子を伺うだけで5秒とかからずに帰っていく。

ただでさえ体に排液のパイプが3つもつながっている私は看護師さんの手助けなしではトイレに行くこともできずに、人間の基本的な尊厳をすべて失っている赤ちゃん状態でした。

また、何が一番つらかったかというと、痛みで排便が全くできないということです。

毎日3食運ばれてくる通常食は結構ボリュームがあり、お腹を膨れさせます。

ただ、いざトイレでソレを出すためにお腹に力を少しでも入れようとすると、手術痕から信じられないくらいの痛みが繰り出されるのです。

明らかにまだメスで切られた臓器がくっついていない中、ぐにぐにと傷口をえぐったり引っ張ったりされているような感覚です。

1回の排泄には微々たる力を何度も振り絞り、痛みに耐えて、腸で硬くなったうんちをゆっくりゆっくりと出すしかありません。

1回の排泄には冷や汗と涙を垂れ流しながら息を切らして50分くらいかけていたのを思い出します。

本当にこれが一番つらかったです。

こんなつらい入院の日々を3週間支えてくれた看護師の皆さん、本当にありがとうございました。

感謝を伝えたくてローソンで買ってきた大量のお菓子はやっぱり受け取ってもらうことはできませんでしたが、あの時の大量のお菓子は手術に立ち会ってくれた友人の家族がおいしくいただいてくれました。


胸には大きな傷


入院生活中しばらくして、私は自分の手術痕を見ることを決心します。

私の体には胸に一直線に貼られたガーゼのようなものがあるのには気づいていました。

そう、手術は開胸で行われていたのです。

恐る恐るガーゼを取ってみると、自分の胸に一直線の傷跡ができていました。

傷口は黒い糸で縫合されており、スプラッター映画でしか見たことがないくらいミミズ腫れした手術痕がそこにはありました。

これには私も面喰いました。

ロボット手術、できなかったんだ。と。

いや、ロボット手術は多分したのです。

胸には3か所の穴が開いており、そこからやってみたものの、やっぱり腫瘍に血管が癒着しているかもしれないので開胸手術にしたのです。

つまり、ロボット手術もしようとして開胸手術もするというキズが一番多く残る方法で行われてしまったということでした。

また、明らかにこの手術痕は2度と消えることがないというのを私に見せつけていました。

この文章を書いている今でも開胸手術をした傷跡は腫れたままです。


退院後の生活


続きます。


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