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歪んだ矜持 ~フォークナー『八月の光』 7~

『八月の光』の主要人物の一人であるジョー・クリスマスの幼少期のパートは、現在の日本においても問題となっている家庭内DVといったシーンが連続します。養父であるサイモン・マッケカーンは、孤児院からクリスマスを引き取ると、宗教的態度を軸にしつつ、強烈な体罰を加えていくのです。

一方で、その体罰に対して、自らの身を挺してジョー・クリスマスを守ろうとするミセス・マッケカーン。守ろうとするというよりは、サイモンに気づかれないようにこっそりと援助するという感じです。しかしながら、サイモンの支配下にミセス・マッケカーンもあり、ジョーと母親の愛情は、体罰によって歪んだ矜持のせいで、構築されぬまま関係が固着してしまいます。

サイモン・マッケカーンの横暴をめぐって、母子関係が結束してもいいのに、そうならないというメカニズムは、母子関係の結束を良しとしないアイデンティティを体罰によって擦り付けたサイモンのやり方に帰着します。辛ければ、母に甘えてもいい。甘えることで、別の関係の逃げ道となるはずなのに、ジョー・クリスマスはその差し伸べられた手を受け取ることを肯んじません。それは、彼が甘えを許されずに、甘えにもたれかからないことこそ矜持としてきた生の軌跡によるものです。

さらに言えば、ジョー・クリスマスが抱える秘密が、彼を孤独にしていました。もし、甘えたとしても、秘密がばれたとたんに自分から離れてしまうだろうという絶望。その絶望を味わないためにも、甘えを振り切らねばなりません。ジョー・クリスマスのメンタリティは、やはり出口なしで、あまりにも哀しいものです。

あらすじ

クリスマス少年8歳。靴磨きがうまくできない。教わっても、うまくできない。そのたびにむち打ちをされる。ミセス・マッケカーンは、ただ、そんな夫の強権的な態度にオロオロするだけ。

折檻は続いた。義父となったサイモン・マッケカーンは、折檻や体罰というよりもしつけだと考えていた。教義問答書を読まされ、暗記させられたが、失敗するたびに折檻が行われ、気絶してしまった。

折檻の理由をサイモンは、「頑なな心」に帰着させる。父が出かけたあと、ミセス・マッケカーンは、クリスマス少年に食事をあげようとする。しかし、それを拒否するクリスマス。しかし、養母がいなくなったあとに、ぶちまけた食べ物を貪り食った。

ジョー・クリスマスは思春期になった。近所の悪ガキたちは、廃墟で女とのたわむれを約束しており、クリスマス少年もそれに参加した。彼の番になった。いざ、女と相対した時、ジョー・クリスマスは錯乱した。「黒人」の女を殴りつけたのだ。

少年たちは、そうしたジョー・クリスマスと喧嘩になった。少年たちは、なぜジョー・クリスマスが、そんな行動に及んだのかわからない。友人だと思っていたジョー・クリスマスがなぜ。

家に帰ると、ジョー・クリスマスは鞭打たれた。サイモン・マッケカーンは、なぜ喧嘩をしてきたのか聞いた。ジョーは答えない。ジョーは、家出の決意を固めた。

ジョーに与えた仔牛がいなくなった。そして、サイモン・マッケカーンはその代りに家畜小屋にスーツがおいてあることを確認した。ジョーに聞くと、仔牛は川に水を飲みに行っているという。探しに行こうと、サイモンは言う。そして、川のそば。そこに仔牛はいない。どうしたのか、と問うと、ジョーは売ったという。

サイモンとジョーは喧嘩をする。ジョーは「もう、俺を殴るな」といい、喧嘩を打ち切る。家に帰ると、サイモンとミセス・マッケカーンが言い争う声が聞こえる。ジョーは、養母が優しくしてくれていたことを理解している。しかし、その優しさは自分を支配するためではないか。愉快なことがあれば、その倍不愉快なことがある。それがジョーの世界だった。愉快なことだけで事が終わることは、より大きな不愉快を呼び寄せる。母性愛はその罠なのだ、とジョー・クリスマスは頑なに思っていた。

養母に、自分は混血だと言ってやったらどうなるだろうか。ジョーは考えたりする。ジョーは、この母性からくる優しさは、自分を堕落させるものだと信じていた。だから、養母のなけなしの優しさを拒否しつづけるのだった。

感想

今、私の周囲にも、多くの家庭がありますが、その家庭内で何が起こっているかを詮索することは難しいです。子どもの行動をみながら、こういう行動をするということはこうした指導が行われているのではないか、と推測するにとどまります。

以前、子どもの上級生に、大人の前では良い子を演じるのですが、子ども同士になるとちょっかいを出して、威嚇したりする子どもがいました。彼は、通学班で前を歩いている同級生のカバンにいたずらをしては、やめてくれという静止も聞かずに、ずっと続けていたといいます。見た目以上に暴力的で、人を威圧する際には「空手の師範を呼んでくるぞ」という言葉を常套句にしていたとも。

しかしながら、武道において、それを実践で使うことは禁じられていることは常識だし、堅忍不抜という精神性も同時に教えられるはずですね。そして、おそらくはその道場においては、口先だけかもしれないが、教えていたはずでありましょう。

それにも関わらず、「空手の師範を呼んでくるぞ」という言葉が脅し文句として何重にも変であることを自覚せずに放ってしまう、この子どもの発言を分析することからしか、家庭の中の状況は推測できないのです。

すなわち、こうした何気ない語用に、権威をかさに着た脅迫が通用すると思い込んでいる意識がみえ、これは親の振る舞いが子どもを通じて社会に流出している表れだとします。

当然ながら、そんなことに師範が呼ばれたら、師範は呼んだ子どもの卑怯なふるまいを叱るだろうと思われますが、彼のいる環境はそうではないのかもしれません。絶対的な権威者がおり、その権威者からの距離で、共同体の秩序が決まっていくような空間に過ごしているのかもしれません。権威者に媚びていれば安定する世界なので、外界では逆に自己を権威者として表示しようとし、権威に従わないものを従わせようとする態度が、流出してしまうというわけですね。

おっと、熱くなりました。クリスマスの置かれている環境は、クリスマス自身をゆがめさせるに足るだけの過酷な状況で、こうした過酷さは1930年代の南部アメリカ社会のみならず、どこにでもある状況です。すぐそこにもありそうな気がします。



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