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性の混乱 〜フォークナー『八月の光』 8〜
暴力、性、差別、殺人…フォークナー世界の定番の主題となっているこれらの事象は、自称優しい世界にはもう居場所もなく、芸術の主題として取り上げられることも無くなっていくのかもしれない。
これらの主題の提示自体が、トラウマをフラッシュバックさせる可能性があるということが明記され、模倣犯を生み出す可能性を禁じる一文を付記することでしか、不可能になる時代は近づいている。
確かに、書かれていることは残酷で残忍である。上記の危険性はもちろんあるし、私はそれらの恐怖自体を踏みにじっていいとは微塵も思わない。フォークナー世界の読者が限られており、かつ、世界への入り口が狭いように感じられることで、この内容の流通が許されているということもあるだろう。
もちろん、フォークナーはそれら陰惨な事象をリアリスティックに描いたわけではない。間接的に、あるいは象徴的に、それそのものの再現が読者の側で容易でないように、言葉を配置している。特に、この8章は、性に目覚め、かつ、性に怯え、かつ、性を支配しようと躍起になるジョー・クリスマスが描かれている。
支配のプロセスでジョーが使えるものは、やはり暴力だけ。暴力的な挙措を見せる人ほど、世界に怯えているというのは真理だ。怖くてたまらないからこそ、暴力でそれに対抗しようとする。しかし、それは社会の側からすると、無法、非道、傍若無人な振る舞いとして認定され、排斥の対象となる。
とはいえ、私も現実の暴力は嫌いであり、見たくもない。歴史上、いわゆる不良時代の終わりといじめ時代の始まりの交代期に少年期を過ごした私は、小中学校の9年間のうち5年間は学級崩壊のさなかにあった。毎日、粘土、将棋、ファミコン。ジョーのいる南部社会とは比較にならないが、それでも、今子どもたちの教室の整然とした授業風景を見ると、自分たちがいかに荒廃した環境にいたかを思い出す。
あらすじ
ジョーは夜抜け出して、町に出る習慣がついていた。
ある日、養父サイモンが、ジョーを連れ、売春宿を兼ねる食堂に行き、無言で諭した。見せながら禁ずるという免疫獲得の方法で。
しかし、ジョーは売春宿の女に恋をしていた。ただ、ジョーはかつて「黒人」の女を殴打してしまった経験を持っていた。したがって、恋と認めることに躊躇していた。
ジョーは、サイモンからもらった10セント硬貨を持って、その食堂を兼ねる売春宿に行った。そして、その女(ボビー)にパイとコーヒーを頼んだ。しかし、パイだけで10セントすることに気づき、コーヒーを取り消した。ボビーは気を利かせて、注文しなかったことにしておいたが、ジョーは、ボビーがコーヒー分を立て替えてくれたのだと思っていた。
あくる日ジョーは、ボビーに立て替えてもらったと思っている金を持って、食堂を兼ねる売春宿に行った。返そうとしたが、従業員と店主に笑われた。彼らは、それで女を買いに来たと勘違いしたのだ。帰り道、たまたま、ボビーに出会い、今しがたの出来事を話し、誤解は解けた。
思春期青年たちは、女性の月経を知る。自己流で。ジョーもまたそれを理解したつもりになっていた。そして、またボビーに会いに行った。話をして、それなりに理解しあったが、ボビーは今日「病気」だという。月経だったのだ。ジョーは落胆して、その場を離れた。
翌週、ジョーはまたボビーに会いに行った。そして、とうとう情交をかわす。とはいえ、ボビーにはいくばくかの金銭を渡していた。売春宿の主人のマックス、同僚のメイムに、ボビーは詮索される。ボビーも金銭の授受があるが、恋のような気がしてならない。マックスとメイムとジョーは、言葉を交わし、それならということで、暗黙のうちに売春宿の部屋の使用許可が出る。
そこでジョーはボビーと寝た後、自分の秘密を打ち明ける。しかし、本気には受け取られなかった。
次の土曜日もジョーはボビーに会いに行った。マックスとメイムはいなかった。しかし、ジョーはそこでボビーが客をとっていることに気づいてしまう。ジョーはボビーを殴る。ジョーは泣いていた。ジョーは、いつしか、この宿の常連になっていた。
感想
ジョー・クリスマスは、ここで養父のサイモン・マッケカーンに売春宿に連れて行かれ、警告を受けるが、その時見た女に恋をし、恋仲になる。
単純なシーケンスだが、このことを理解するために、この章を2回読んだ。2回読まないと、あらすじの把握に自信が持てなかったからだ。
感想はとくに湧いてこない。
混血であるということを言わなければわからないくらいの混血性について、ジョーが慎重になり、それの暴露を恐れ、しかし、それにアイデンティティを置かなければならないという矛盾は、いかにも苦しいものだ。ここを、恋人となったボビーに、どう提示するのか、と一度目に読み飛ばしたところを読み直したら、割とあっさりいい、本気で取られないという形で決着がついた。
ジェファソンに来た段階でジョーは、超悪そうな感じにしあがっているが、このときはまだ純朴で、粗野だが優しさも持ち合わせていた。施設で邪険にされ、養父に折檻されていたジョーが、どうにかこうにか大人になりつつある姿に、感銘を受ける。しかし、このあと…と思うと気が重い。
昔は、いいひとであればいい人生になるものだと素朴に思っていた。しかしながら、48年生きていると、いいひとであるだけでは、いい人生にならないということも悟る。いいひとではない人の方が、何百倍も金を稼ぐし、起伏のある人生を送ることはざらにある。先日も、ああこうやって会社を奪い取るのね、という実例を見た。立場の弱い人を援助するふりをして、その苦境につけこむ。最初は援助のつもりだったかもしれないが、援助しきれないとなったときに、その人を切り、会社存続のためにという大義名分で、疚しさを糊塗する。最初から、そうなることは予測できていて援助したんだろう、と私は思った。
いいひとや優しい人は、感謝されながらも奪い取られていることに、気づかない場合が多い。感謝という心情的なパフォーマンスで、等価交換をしたつもりになっているが、交換は等価でなかったりする場合がある。なんのこっちゃ、という感じで、具体的なものいいができないのが、心苦しい。いずれにしても、ジョーもまた善意が転じて悪意へと変化する経験をせざるを得ない。
サイモン・マッケカーンは言う。
おかしな話だが、人間、まず無駄遣いをしないと金の値打ちが判らないようだがな。