モヤモヤ・雑談・素直な感想 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』37〜

現実世界では、すでに『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終わっているので、時間を遡って、古い章の一つ一つの手触りを確かめている。昨日は、田舎教師の里でその作業を行おうとしていたら、カフェも時間も見当たらなかった。いや、もちろん、ないわけではなかったのだが、こじんまりしたカフェは、近隣利用がメインのために駐車場などはないし、大型のカフェは別に羽生に行ってわざわざ立ち寄るものでもない。そういう意味で、カフェは、基本的に地域密着のものなのだと思う。バーバーと同じように。

昨日は仕事を忘れる日だったのに、仕事が追いかけてきた。それに対応していると、やっぱりつい楽しくなってきて、仕事を思い出してしまった。「楽しくなってきて」という表現には語弊があるが、ピアノを弾いていたら、弾いていること自体が馴染んできたというか、そういう感じ。

免許証を新旧見比べたら、5年前に比べてちょっと痩せた感じがした。数字の上では5キロぐらいのものだが、少しだけ嬉しかった。それにしても、この3年間はなんだったんだろう。ちょうど3年前、未知のウイルスが来ると言って、一瞬だけ子どもらを田舎に行かせた。子どもらは、学校が休みで、かつ田舎でただただ遊んだようだ。今思えば、単なる休暇であって、お金と時間を浪費しただけだったが、子どもたちはその経験を懐かしく思っているようだ。

花粉症のせいか、やっぱり、物事の思い出され方が、断片的である。昨日酒を飲んだわけでもなく、むしろ、早く寝たと思うのだが、どこか頭の想念のピントが合わないのは、花粉症のせいだろう。花粉症のせいにしたい。

「僕」は仕切り直すために貯蓄を確認し、図書館で新聞の縮刷版を見ながら、過去の殺人事件を整理していった。しかし、そこにキキの痕跡はどこにもなかったし、メイの痕跡すら、どこにもなかった。

ユキに「僕」は電話をかけるが、ユキは浮かない声だった。ディック・ノースが亡くなって以来、ぼんやりとしていて生気がないらしい。「僕」は近いうちに会いに行くことを約束して、電話を切った。

「僕」はアメに会いにいった。確かに生気はなかった。慰めとも、無駄話ともつかない会話をした。アメは、どうして自分が付き合う男はこのような奇妙な死を遂げるのかに悩んでいた。「僕」はディック・ノースのことを思い出していた。死んでからの方が存在感がある、稀有な男だと思った。

若い時の私なら、このチョイ役であるディック・ノースの意味などを問いかけてしまっていただろう。そして、数多の先輩たちから「細部の意味なんか考えてどうするの?」などと叩かれていたはずだ。それは私の「意味」という言葉の使い方が曖昧であったからだと今では思う。

ここでの「意味」の使い方は、まさに批判された通りの使い方で、チョイ役としてディック・ノースがただ小説内の機能として消費されていることに対して、ディック・ノースの実存とはなんなのかと問いたかったのである。しかし、それは小説の解釈ではなく、別の創造を示唆しているので、感想や解釈、批評を旨とする読書会のテーマではなかったことは今でならわかる気がする。

そういう意味では、本を読んでいるようで、私は読んでいない。創造のきっかけになるようなネタを探していただけなんだと思う。ある人からすれば、ディック・ノースは別の小説から拝借された小ネタの一つで、知る人ぞ知るガジェットだと言うだろう。そんな作者が軽い気持ちで仕掛けたスカベンジャーをハントすることが気の利いた振る舞いだと思っていた時期もある。

何を言いたいのか自分でもわからなくなってしまったが、必要以上に本を難しく読む必要はないし、その本を読んで抱いた生じた気持ちを表明することは、大切なことだと思う。


私は変にひねこびた人が周りにいて、その周りの圧力を跳ね返すために、多少の理論武装をしたせいで、過剰に「作者の意図を読み取る」とか「本を読んだ感想を素直に述べる」とかの読解を素直に表明できない体質になってしまっていて、それをするために、わざわざその小説について書かれた論考の整理などをして、「ああそれはあの人の意見ですよね」みたいにディフェンス力をつけてから後、感想を述べるようになってしまったが、それには良い面もあれば悪い面もあったと言うことだ。悪い面の方が多かったかもしれない。

偉い人の父が亡くなったから香典を集めたい。賛同される人は1000円出せ、というメールがきた。ウチも夏に亡くなっているんだけどなあ。賛同してないけど、しているふりをしなきゃダメかな。

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