彷徨の果てに ~フォークナー『八月の光』10~
視野の不調で、週末、週頭、更新がままならなかった。もちろん、読むことをやめてはいなかったが、内容がすでに頭にある程度入っていたものと、部分的なところを強調して全体像を描くことが容易なもの。全て読んでいなくても、読んだふりができるものについて書いたに過ぎない。
今までのブログでもそうだったが、読んだ副産物としてアウトプットがあるはずなのに、それがいつしか逆転して、アウトプットのために読んだり、アウトプットの締め切りが近いからと読みが疎かになってしまったり、本末転倒もはなはだしい。それが起こりかけていた。それを防ぐためにあらすじを書いている。
全部読まずに、本の感想を書きつけることは容易だ。ただ、自分比で見ると、全部読んで書いたものと、全部読まずして書いたものとには、大きな違いがある。具体的にどこが、と指摘はできないのだが、読んでない部分があるとどうしても筆が臆病になるというのか、異論までも包含したようなどっちつかずの言葉になってしまう。
ただ、本を全部読まなくてはならない、という格言を人に押し付けるつもりはない。本はどこから読んでもいいし、どこで読み終わってもいい、自由なジャンルであるはずだ。長編などはだから、部分を自己完結的なモジュールとみなして、私も分割して読んでいる。
その後の人生において、読書家のK氏と長らく仲良くさせていただいた。K氏は私が見るところでも専門性を兼ね備えた無類の読書家であるが、一応購入した書籍は全部読むと言っていた。ただ、そのK氏ですら寄る年波には勝てないようで、最近は買った本を読む時間がない、と嘆いていた。そんなの俺は30代からだよ、と言っておいた。
K氏いわく、全体を曲がりなりにでも理解しないと、部分の意味が判然としてこないそうだ。もちろん、その「全体」は、再読によって広がっていくので、再読のたびに「部分」もまた新たに輝き始めるのだという。このK氏の言う「全体」が全部読むにつながるのは間違いない。
あと、週末は運動する時間が少ないということもあるかもしれない。運動といってもただ歩くだけ、仕事がある平日は駅まで歩くだけの簡単な運動だが、体がほぐれると同時に頭もほぐれていくような気がするから不思議なものだ。昨日読んだ内容を反芻しながら歩いていると、固着した想念どうしがほぐれて、別のものと結びつき、こういう話の流れで書いてみてもいいかなあという気づきが生まれる。それが週末に欠けていたことは間違いない。
運動とアイデアの関係は不思議で、頭と身体は別々ものだと考えられがちだが、頭は身体の一部でもあるわけで、やはり不可分である。モーリス・メルロ=ポンティが身体と思考の相互作用性について、色々書いていたように思うが、これは「全部読んでない」ので、なんとなく偉い人の威をかるためにだけにとってつけることにしてみた。要するに、昔の偉い人も、思考と身体は関連ありますよ、と言っているというわけである。
というわけでフォークナー。
あらすじ
ジョーは、売春酒場のオヤジであるマックスとその仲間に殴られて、寝転んでいる。もうろうとした意識の中、マックスたちが逃げ去っていくのをジョーも聞く。
意識を取り戻したジョーもまた、よろよろと酒場を後にし、15年にわたる放浪の旅に出ることになる。
オクラホマ州、ミズーリ州、メキシコ、シカゴとデトロイト、そしてミシシッピ州へ。
ジョーはその土地土地で、女を見つけ、寝ては、自分は混血だと言って、逃げた。そうすることで、あとくされなく、関係を断ち切れた。しかし、北部に行って、この言い訳を使おうと思ったら、使えなかった。そして、ジョーはその女に暴力をふるう。
ジョーは、「黒人」の女と一緒に暮らすことで、自分をそちらの側に置こうとつとめたりしたが、それも無駄な抵抗だった。
ジョーは、そして、とある屋敷を見つけた。ミス・バーデンの家だった。周囲の人の話によると、この周囲の「黒人」たちが世話をしているという。
クリスマスは食事時に、その屋敷に忍び込んだ。そして、食べ物を失敬し、食べた。すると、忌まわしくも懐かしい記憶がよみがえってきて、不意を突かれた。ミス・バーデンに見つかったのだ。
感想
前説と違って感想は、読んだ上で出てきた想念に基づいて書かねばならぬので、一苦労だ。想念が出ない時もある。想念が、あまりにも自分語りに寄りすぎる場合もある。読書感想とは、なんとも不自由である。
子どもたちに読書させ、感想を聞くと、そこまで多くの言葉が出てこない。面白かった!泣いた!感動した!商品としては、それでいいんだろうと思う。しかし、読書感想は曲がりなりにも教育だ。消費者の殻を破って、自立的な思考を立ち上げ、内容をものにする作法を学ぶのが、読書感想であろう。しかし、そんな簡単には行かないのが、常である。
この章は、ジョー・クリスマスが、養父サイモンを殺害し、故郷を出奔し、北部から南部まで様々な街を放浪し、ジェファソンにたどり着き、ミス・バーデンと巡り合うまでが内容である。ふむ、想念は起こらない。いや、起こっている想念は、どうしても、こちらの側からのものになりがちだ。つまり、どうして軌道修正して真っ当に生きることを放棄したのか、という問いだ。
ジョー・クリスマスの幼少期は、両親を祖父に殺害され、祖父によって孤児院に入れられ、猜疑心に彩られて過ごし、マッケカーン家に引き取られ、厳しいルールの中で育てられ、人格が形成され、その根底には見た目ではわからないが自分は混血だという自覚を深めていく。これだけみても、いわゆる諸般の犯罪者のドキュメンタリーにありそうな内容である。
しかしながら、混血であるかもしれないという不安と、混血だとしたらどちらの側のアイデンティティを拠り所にしていったらいいのかという苦悩と、そんなことで自分を煩わせる社会に対する不満と抵抗と、自分を救済してくれないかもしれない神への信仰と懐疑と、このように入り組んだジョーの内面を意識の流れという手法で描き切ったことが、社会的な問題も提起しつつ、作品としての自律性も保つ(フィクションとしての完成度)ことで、名作の仲間入りをしているのだろう。
単純に、辛い→羨ましい→ムカつく→暴力!、という自己抑制の欠如とは別次元の問題が、ジョーの「辛い」の中に入っていて、それが本人にすら理解され得ていないことをフォークナーは物語という形式で示したのである。それがまあ、凄い。
最後に書けばいいことを、ネタがなくて、ここに書いてしまった。まだ、途中だろう。あ、どうでもいいですが、岩波文庫の『八月の光』も買っちゃいました。翻訳が結構違うかもしれませんね。
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