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太宰治「懶惰の歌留多」

朝からボタンの掛け違いが多く、思いやられる一日になりそうだ。

まず、先日ビューカードの期限が切れ、新しいものが届いた。旧カード情報を、新カードに移し替える操作をしなくてはならないが、しばらくは旧カードを使っておこうと、サイフに新旧二つのカードを入れたまま改札を通ったら、誤って新カードにチャージされてしまった。

まあいいか、と、後日券売機で移し替えの作業をしようとしたところ、窓口に行けという指示が出た。窓口は並ぶので面倒だなと思い、旧カードを使い切ってから、新カードに新規で通勤定期券を買えばいいかと、今日それを試したら、カードが反応してくれない。

仕方なく窓口に並んで、どうせ電車も遅れているしと諦めて手続きしたら、窓口の人もカードの読み取りができずに困惑。とりあえず、リアル定期券を出してもらって、後日その定期券情報をビューカードに移す手続きを、カードが反応しない問題解決として一緒にやってみようということになった。

しかし、新カードはクレジット機能は生きていて、Suicaは使えるし、グリーン車にも乗れる。カード自体が死んでいるわけではない。こうしたデジタル技術の便利さは、メンテナンスの難しさと裏腹で、物理的破壊と情報技術的破壊の二つに対応しなくてはならないという問題は、案外生の条件を複雑化しただけではないのだろうか。

さて、気を取り直して、太宰治でも読もうと思ったが、どうも気が乗らない。とりあえず「懶惰の歌留多」に狙いを定めてみた。

芥川龍之介と同様、太宰治も正面切って好きと言えない作家の代表格で、隠れ太宰ファンは多かった。それは太宰の作品というよりは、太宰の語り口に魅力を感じてのことが多い。

先日、90年代文学部生のバカトークの話をしたが、文学部あるあるの一番面白いのは「本を読むのが好きではない人が結構多い」ということだ。まあもちろん、文学部の規模や構成にもよるが、私のいたところは様々な人文系が集合していたところなので、小説は嫌いという人や、語学しか興味がないという人や、石ばかり掘ってる人とか、探検しかしないという人など、バラエティに富んでいた。そして何より文学部なのに文学系の学科(実際はもうちょっと別の名でカテゴライズされていたのだが)には、志望者が少ないという現実があった(私も、史学なので、文学部にいながら文学を専攻しなかった人の一人だ)。

そんな中、太宰ファンを探していく、という試みをしたことがあるが、それはそれで楽しかった。90年代後半の学生なので、桜桃忌に参加する人はリアルで目にしたことはないけれども、太宰治の文体論的再評価、客観的自己演出の作家としての再評価期にあたっていたので、その側面から「実は太宰好きでしょ?」と掘り下げていって、ゲロする人は多かったように思う。これもまた、どうでもいい一部の文学部話ではあるが。

あらすじ

「懶惰の歌留多」には特に明確な筋はない。締め切り前なのに書きあぐねている作家と思しき語り手が、書けない思いを自嘲や自負をないまぜに、書きつけていく。途中から、それをいろは歌留多の形式で書き留めていこうとするが、途中で終わる。

引用するとその雰囲気が感じ取れるであろう。

この作品が、健康か不健康か、それは読者がきめてくれるだろうと思うが、この作品は、決して、ぐうたらでは無い。ぐうたら、どころか、私は一生懸命である。こんな小説を、いま発表するのは、私にとって不利益かも知れない。けれども、三十一歳は、三十一歳なりに、いろいろ冒険してみるのが、ほんとうだと思っている。戦争と平和は、私にはまだ書けない。私は、これからも、様々に迷うだろう。
p.225

という感じで、句点がやたらと多く、読み手のリズムを撹乱してくる。太宰の息遣いで読むように、要求するようなリズム小説なのだと言える。そもそも「懶惰の歌留多」自体が、韻というほどでもない微妙な韻であって、絶妙な音楽になっている。この太宰的音楽を愛する人が多かった印象である。

その上、時々、音や文体よりも、弱い自分の雰囲気を小出しにしてきたりして、そんな甘え上手な語り手の創造が、太宰の魅力だったりする。


感想

さて、こういう太宰文体に思うのは、これもひっくるめてハシカのように襲ってくる太宰の魅力に抗いながら、自身の文体を作ることの重要性だろう。生まれてすみませんべい、よりも、自分の弱さ強さを観察しながら、小出しに自身をピエロに仕立てていった方法論が太宰の魅力で、それは一度太宰を通過したと思っている人に、2度目に襲ってくる強力なヴィルスのようなものなのだ。

そんな太宰の文体で、太宰の追悼と太宰論をやったのに、坂口安吾の「不良少年とキリスト」があるが、これはもう戦後のみならず、日本文学史上稀に見る痛切で滑稽な文章だ。この二人の掛け合いを見るたびに、大人ってやっぱり演じるものだよね、なんていう気持ちを掻き立てられる。正直、この自分のnoteの文章、あと少しで50代になんなんとする人間の文章じゃないよね!アイデンティティなんて、発話や行為の事後的なパフォーマティブによって生まれる航跡みたいなもんだよ、なーんてね。

さて、そんな莫迦な戯言はともかく、太宰マラソンコース十周くらいすると、甘美な魅力が出てくるというか、太宰に取り憑かれなくて済むよね、という話。あ、私は除霊し切れなかったんですけどね。

ちなみに太宰治全集2の表紙は私の心のように砕けております、ごめん治。

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