不調和・探究・一貫すべきだろうか 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』 31〜
職場の自分の周囲を片付けた。片付けていたら、どうしたんですか辞める準備ですか、と言われたので、「そうですよ」と答えた。その人は「いやー、我が社にとって、得難い人材が〜」とか何とか言っていたが、コイツは俺が辞めることを期待していたのだな、と、ひとまず認識を改めることにした。
周囲との不調和をどのように解消すればいいのか、案外わかりづらい。『ダンス・ダンス・ダンス』は、バブル期の最中にバブルの狂騒を客観的に見つめて、それに敢えてのることを選択する男の話だと言われることも多いが、周囲との不調和と自分をどうチューニングしていくのか、という課題を追求した話とも取れなくはない。
『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」の場合、妻が去り、恋人が去り、友人が去っていった。去って行く理由は様々だが、「僕」は普通にしているだけなのに去られるのだから、その普通が他人の普通と異なっていることは、「僕」の目にも明らかだ。周囲を変えるのか、自分を変えるのか。
人を変えることは難しいので、人々が過ごす環境やカルチャーを変えようとつとめ、同調圧力や伝統的支配に弱い人々の行動変容を生み出そうとすることが多いものだが、『ダンス・ダンス・ダンス』では、「僕」自身が状況に敢えて振り回されることによって、その調和点、接続点を探す、そんな小説だ。
*
ハワイから帰ってきた「僕」は、ユキの父牧村拓にコールガールの組織について聞いたり、自分がいなかった時期の日本の様子を新聞で知ろうとして、図書館に行ったりする。それは当然メイの操作状況を知るためでもあった。警察は、メイが所属していた売春組織に狙いを定めているようだ。
五反田君から連絡があり、飲む約束を取り付けたり、牧村からもらった資金と経費とをより分けて、精算しようとしたり、ちょっとした食事をとりながらコーヒーや酒を楽しんだりした。来るべき結末に備えて。
*
個人的には、言葉は言葉として、人と切り離して考えないといけないと思う。
私も発言にブレがあり、思ってもいないこと、信念とは逆のこと、敢えて神経を逆撫ですること、などを普段持っている感情とは別に言ってしまうことがある。それが、周囲のこちらに持つイメージと異なる時に、不気味さのようなものを感じさせるようだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」も、しばしばユキにたしなめられるように、行動と発言と信条の一貫性がない。いや、一貫性がないというのは言い過ぎで、行動と発言と信条の入れ替え可能性を自覚している。
その自覚こそ他者への寛容につながるものと思って生きてきたが、昨今の世間はそうではないようだ。
行動と発言と信条は常に一貫しているべき、という信念を持つ人が多くなってきたとは思わないが、その信念の信憑性は高まっている気がして、それが窮屈である。
知らんけど。