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フラナリー・オコナー「善良な田舎者」

のっけから感想が飛び出るくらいに、ヤバイ感情につつまれている。フラナリー・オコナーの短編に自分の愚かさをえぐられた。お前は何もわかっちゃいないが、わかっちゃいないということに安住していると取り返しのつかないことになるぞ。オコナーは、何かに身をゆだねてしまっていることに気が付いていない人間の愚かさを、温かく包むのではなくて、厳しくえぐってくるのだ。

ああ、今日も仕事場に行くのは面倒だなあ、という生ぬるい感情の中で読み始めた「善良な田舎者」で、こんな話だったっけ、全然覚えていないね、と上の空で読み進めた前半から転調、後半の話の展開は、フォークナーの『サンクチュアリ』よりも屈辱的じゃない?という感じ。しかも、その細部はオコナー自身の病と重ねられており、肉を切らせて骨を断つ、オコナーの真剣味に襟を正さなくてはならないと感じたものだった。

フラナリー・オコナーは、ジョージア州出身の作家で、不治の病を得てしまい、嘱望されながらも早世。代表作は『賢い血』など。名前をみると、アイルランド系なのか、ローマン・カトリックの作家である。アメリカ文学はそこまで得意ではないが、『ギャング・オブ・ニューヨーク』のイメージが強く焼き付いており、カトリック系、ユダヤ系、アフロアメリカンといったWASP的なものから差異を持つ作家には共感を持つ。例えば、トニ・モリスン。彼女の『パラダイス』は名作だと思う。

それにしても、こんなにボロボロのオコナー短編集をいつ買ったのやら。ブックオフの印も、古本屋の鉛筆の値段も書かれていないので、おそらくは均一棚のように置かれていたのを手に取った一冊だと思われる。まだ、世界文学の地図が頭の中にできていない頃。とりあえず新潮文庫の海外作家が格安であったら買っとけ、と思っていた時代。そんな時代のsmells for teens spiritがかすかに臭ってくる感じ。ああ、恥ずかしい。

ともあれ、どちらかといえば知る人ぞ知る作家であるフラナリー・オコナーの「善良な田舎者」は、どんな話なのか。

あらすじ

ある田舎にホープウェル夫人という人が住んでいた。彼女は、「人間はみんな違うからね」や「この世の中をつくるにはあらゆる種類の人間が必要ですからね」という格律を心の内にもっている寛容な人物である。その寛容さは、フリーマン一家という使用人一家を抱えていることからも見て取れる。

特に、フリーマンさんと呼ばれる使用人の女性は、気になったことについては何でも首をつっこみ詮索せずにはいられない人で、何か言われると「あたしはいつも自分でそう言ってましたよ」とか返してしまう人だった。つまり「だれかが到達した考えのうちで、まず最初に彼女が到達しなかった考えは一つもな」いようなテレパス味あふれる人だった。そんな「この世に生きている女のうちでいちばんやかましい」と評されるフリーマンさんを雇って、はや4年になるのだ。

そんなホープウェル夫人には娘が一人いた。ジョイと呼ばれる娘で、小さいころ猟銃の事故で足を切断せざるを得なくなり、義足で生活している。現在32歳で、独身。家に寄生している。不思議な思考の持ち主で、勉強はできたので大学まで通った。その際に、ジョイという名前を「ハルガ」という名前に変えてしまう。「ハルガ」には、不恰好な軍艦を思い起こさせる響きがあるという。その後、ハルガは博士号まで取得するが、専攻は哲学で、無神論者になる。そして、家に戻り、ずっと家で生活している。

ハルガは、最初フリーマンさんが家に来た時、うまくやっていけないと思ったが、母親に付き合わされるのから解放されるので、途中から路線変更した。けれども、フリーマンさんは逆に攻勢に出て、あれこれと義足のことについて聞きまわり、ホープウェル夫人は寛容にも、それらのいきさつを隠し立てるよりも、おおっぴらにしてしまうのだった。

そんな女性ばかりが住む家に、ある日若い男のセールスマンがやってくる。家庭用の聖書をホープウェル夫人は食事の準備をしていたが、持ち前の寛容さで家に上げて、話を聞いている。そこにハルガが食事を所望し、ホープウェル夫人は若い男も誘って三人で食事をしようということになる。ホープウェル夫人は、この若い男のことを本当の田舎者だと考える。

若い男は、へりくだって答える。「奥さんのような人たちはわたくしのような田舎者を相手にするのがおいやなんです!」と。マンリー・ポインターと名乗る若い男は、自分は大学にいかずにキリスト教の仕事に一生をささげたいと熱弁する。ハルガは、無神論者なので、聖書はいらないと言うが、そうした拒否にも負けずに熱弁をふるう。ジョイが食事を終えて出ていったあとも、ホープウェル夫人とポインターは話し、意気投合する。

ポインターが礼を言って帰るとき、門のところでハルガが出てきて、若い男と二、三、声を交わしているのがホープウェル夫人には見える。もっとよく何をしているのかを見ようとしたが、フリーマンさんが自分の話をして、注意がさえぎられてしまう。ただ、ホープウェル夫人にとって、ポインターは「とてもまじめで純真」な、「善良な田舎者」だった。

ハルガは出かけてしまう。あいびきの約束をしてしまった。善良な田舎者であり教養もなさそうなポインターとなら、何かなるかもしれないとハルガは考えた。待ち合わせの場所に行くと、ポインターが出てきた。少したわいもないが、哲学的とも言える会話をした。そして、ハルガの美質を褒め、自分のかかった病気について哀れっぽく話す。ハルガは「真の天才は劣った人間にも考えをわからせることができるのだ。彼女は彼の悔恨を引き受け、それを作りかえて人生についてのもっと深い理解にする、と彼女は想像した」のだ。

ハルガはポインターを納屋に連れて行き、誘惑する。若者はやんわりと、納屋の2階にあげれないのは残念、と拒否するような身振りを取る。ハルガは自ら上がってみせる。二人は愛撫を始める。若者はそれを止め、愛の言葉を欲しいという。ハルガは、おざなりにいうが、若者はそれを信じられないという。どうしたら信じられるのか。若者は驚くべき提案をする。義足が脚に付いているところを見せてくれよ。

ハルガは屈辱感を感じ、拒否するが、ポインターはあんたは俺をただ見下しているだけだと述べる。ハルガは見せる。外したり、つけたりするのを見せてくれ、という。ハルガは、義足をとって、自分でつけようとするがつけさせてくれ、とポインターは言い、義足を奪い取る。その後、ことに及ぶのかどうなのか微妙な一悶着があり、ポインターは義足をスーツケースの中に入れて、そのまま下に降りてしまう。

「おめえさんはあんまり利口じゃねえな。おれは生まれたときから、なんにも信じていねえんだ!」

納屋から出て、歩いて行くポインターを、ホープウェル夫人とフリーマンさんは眺める。

「わたしたちがみんなあのくらい単純だと、世の中はもっとよくなると思うわ」と夫人。

「そんなに単純になれない人間もいますよ。あたしはとてもそうなれないと分かってます」とフリーマンさん。

感想

ものすごい単純なことを言えば、人を騙す人ほど騙されそうな外見や性格を装うよね、ということ。それがこの小説の核心ではないと思うが、自身の信念が観察を狂わせることって、あるよねということをまず考えた。その上で、オコナーは無限の信仰を口にしながら、人間的悪を働く人が存在することの事実性を提示している。ポインターがいう、俺なんか昔から何も信じてないよ、という捨て台詞。何が悪なのか、を考えさせられる。

凡庸さということなのか。ホープウェル夫人の人間観察眼は、自分の寛容に目が眩んで、節穴だし、フリーマンさんはフリーマンさんで、自身の能力を過信して、目が曇っている。ハルガは、その知識によって、何かが見えなくなっていた。じゃあ、ポインターが真理なのかというと、これはやっぱり違う。

終わらせ方が芥川龍之介の『羅生門』を思わせるが、もう少し後味が悪い。この後味の悪さは、ハルガをかなり突き放して描いているからだろう。現代日本だとハルガは、敬しつつも遠ざけられ、面倒な人だが大事にしないといけない存在として、認識されるだろう。

当初、フリーマンさんの描写から始まって、これは賢いと思ってる人を皮肉っぽく描くシニカルな話なのかと思ったら、数ひねりあって、ものすごい後味の悪さを残した。オコナーは当然、ポインターの暴力を批判する立場に立つのだろうが、人間社会の救いのなさを呵責なく描いて行く目にも驚く。ハルガはどこかでちょっと救いたくなるだろうに。

日本語の小説と、翻訳の小説を交互に読んで行くと、日本語の小説を読むときには、日本社会のコンテクストを利用できるのでなんとなく読み飛ばすことも多いが、翻訳は字義通りに読みつつ、さらに文化的コンテクストを読まねばならないので、読み方が異なるということだ。当たり前のことだけど今更。

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