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ミス・バーデンの最期 〜フォークナー『八月の光』 12〜
岩波文庫で言えば下巻に入りました。kindleだと、このようなフィジカルな感覚がなくなるので、やっぱり本当は書籍形式がいいな!
それにしても、『ペスト』に続いて、『八月の光』を取り上げたのはちょっと重かった。次にヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』かディケンズ『オリバー・トゥイスト』か迷ったけれども、一旦ナサニエル・ウェストでも挟んだ方がいいかもしれない。主題だけじゃなく、本も重くて、四十肩と腱鞘炎にはこたえるからだ。あとは、老眼にも。
12章は、読んでいて陰鬱になる。ジョーが改心して、ジョアナ(ミス・バーデン)と結婚して、めでたしめでたしで良くね?と思うのは、平和ボケした異文化民の戯言なのだろうか。そういう選択肢が示されるのに、ジョーはそれを拒否して、しかも、アレしちゃって逃亡してしまう。アレしちゃったり、コレしちゃったりの決定的な場面を敢えて描かないのはフォークナー流。わざと混乱した書き方をして、読者をも混乱せしめる。ホント、ニクイ奴ですよ。
それにしても暑いです。先日の涼しさから急に暑くなって、苦しい。少しは痩せて、肝機能が改善するかなと祈ってみるも、誰が私を助けてくれるというのか、とにかく熱中症にならぬよう、水を飲み続けることを日課としたい。この照りつける陽射しは、もう俺たちの八月の光だよ、と思っちまいます。
「八月の光」というタイトルは、じっくり眺めると、本当にいいですね。フォークナーの奥さんがそんなことを言ったとかで、急遽変更されたタイトルらしいですが、T・S・エリオットの四月は云々と同じくらい、記憶に残る八月ですね。私の八月の光といえば、忘れもしない優勝も狙えると言われた中学校の県大会の初戦で負けて、その日の午後と夏休みが丸々手に入った時の、あのポッカリと空いた空虚な午後の光ですかね。
午前中で試合とこれから続くはずだった部活の練習が無くなって、誰からともなく「バッティングセンターでも行こうぜ」(野球部ではなかった)と、ノロノロと自転車で帰ったあの日の午後の光。不完全燃焼のやけぼっくいに息を吹きかけた時の光のような鈍い光。暑いんだか、爽やかなんだかわからなず元気を持て余したような光。私自身、中学校ではそのような運動部で、切磋琢磨していたわけですが、すっかり闇落ちしてしまいました。
というわけで、皆さんの「八月の光」はどんなものだったのでしょうか。
あらすじ
ジョアナ(ミス・バーデン)は、昼は堅い知的な活動に勤しんでいた。それはジョーが夜見る顔とは大違いだった。二つの人格が入れ替わるかのようだった。しかし、関係が深まるにつれて、ジョアナの感情がむき出しになっていく。
ジョアナもジョーとの情交にのめり込んでいった。ジョーは、そののめり込み方に恐れを感じた。しかし、二人は手紙の隠し場所を決めて、ある時間に読みにいくように約束したり、わざと会う時間をずらしたりして、いわば蜜月の時代であるセカンドステージを生きていた。
徐々にジョアナはふくよかになっていった。ジョーは密造酒の密売を始めていた。ジョアナはそれを知らぬふりをしていた。情交は繰り返されるが、潮の満ち引きのように、少しずつ疎密ができていった。
ジョアナは妊娠した。ジョーは狼狽えた。ジョアナが自分と結婚しようとしていることを恐れた。逃げたいとも思った。しかし、逃げる事はまだ出来なかった。ジョアナは、ジョーに自分の事業を全部引き継いでほしいと頼んだ。ジョーの心はぐらついた。ジョアナに説得されるたび、ジョーは自分が吹きっさらしの平原にいるかのように感じていた。
この頃、ブラウンと製板所で出会い、手下にする。ジョアナの家の小屋にジョーとブラウンは一緒に住むようになる。ジョーはそれでも、ブラウンよりも早く小屋に戻り、ジョアナからの私信を受け取る。ある日の手紙に、おそらく流産したことが書いてあったのだろう。ジョーはふたたびジョアナの家に、ブラウンが見ているにも関わらず入っていく。
ブラウンはそのことを知る。頭の弱いブラウンは、それを茶化し、ジョーに殴られる。それでもジョアナは、メンフィスの学校にジョーを行かせ、そこで免許を取って、業務を引き継いでくれるように説得した。ジョーも、気持ちが揺らぐが、その学校は「黒人による黒人のための」学校で、ジョーが無償で入学するには、自分が混血であると言うことを確定せねばならぬ。
ジョーはジョアナと、ある日祈りを捧げる。学校には行かなくてもいい、ただここにいてくれとジョアナは言う。そして、別の日にも一緒にひざまずいてほしいとジョアナは言う。亡くなった子どものことを祈ろうと言うのか。ジョーは実質的に結婚しているようなものだ。ここから逃げるには、どうすればいいのか。
最後にあった日、ジョーは剃刀を手にしている。女は銃を持っている。対峙している。撃鉄が動くのをジョーは見た。
ジョーは逃亡した。剃刀で、反射的にジョアナの首を切ってしまった。ジョーは深夜の田舎道を走る車を止め、若者カップルが運転する車に乗り込む。女は怯え、運転手はこっそり家に向かい、通報しようと画策する。しかし、ジョーはそれに気づき、車を降りる。そして、ジョアナの銃を見る。
撃鉄が降りていたが不発に終わっていた。弾はもう一発入っていた。これは俺とあの女に使う弾だったんだ。ジョーは独りごちる。
感想
相変わらずキツいですね。ジョアナとクリスマスの愛、と言ったら綺麗事になりますが、愛がもつれた結果、こういう結末になってしまった。ジョアナは見たこともない「呪われた兄」のイメージを、ジョーに重ねたのでしょうか。これって、アブサロム、アブサロム!につながる主題ですよね、どうでもいいけど。
フォークナー作品を読むことで得られる感情って、私はやるせなさと怒りです。特定の人に対する怒りではなく、そのような結末に人を向かわせる「何か」についての怒り。このsomethingについて、考察する体力も気力も私は失われてしまった。ただ、そのsomethingは、現行の社会にも色々転がってる気がしてならず、朝会社に通勤する時にすれ違う人々の不機嫌な顔を見ると、(フォークナーの描く)南部かよ!と突っ込みたくなるんです。
細井徳太郎さんという方が、たぶん、本作品をモチーフとしていい楽曲を作ってくれていて、私はこの文章を書きながら、頭の中でストーリーと音楽をかき混ぜて、文章を捻り出している。リーナとジョーの物語が、モンタージュされたような楽曲で、小説を読む時のベースラインにさせていただいております。原題も、日本語訳も、なんかいいですよね。実際は、ジョーがリーナをアレする時にカミソリをわざわざ使ったように、何か象徴的な意味が本来はあるんでしょうけどね。
日本だと、私もそうですけど、八月って青春とか祈りの感じが喚起される。どうなんですかね。いや、八月の光っていうとやっぱり、1945年8月のそれですよね。小学生の時に丸木美術館やはだしのゲン、大人になっては大田洋子や『この世界の片隅に』などで見たあの光。祈らずにはいられないよな。