クリスマスの原体験 〜フォークナー『八月の光』 6〜
子どものころの記憶には、濃淡がある。昔は嫌なことばかりを思い出していたものだが、年を取るにしたがって脳細胞が壊れていき、いい思い出も思い出せるようになった。酒を飲みながら、悪い記憶が格納されている細胞だけが壊れて、良い記憶が格納されている記憶だけが残るように祈る。人生そううまくいくものではないのは、もちろん理解はしているつもりだが、祈るのは無料である。
しかしながら根深いところに残る嫌な記憶というのはなかなか払拭できない。そのことを昨今は、トラウマと名付けているようだ。嫌な記憶をトラウマと認識して、外化するか、嫌な記憶のままにそれと付き合っていくかは、心的外傷の度合いによるものだろう。私の場合は、トラウマと名づけるほどではないと一蹴されそうなので、しばらくはモヤモヤしたまま付き合っていくしかないのだと思う。
『八月の光』のジョー・クリスマスの場合は、もちろん最悪のケースである。差別は、ある負の方面の区別が社会的に正当化されることで生み出され、区別の根拠のみならず正当性もまた再生産されていく。当然ながら南北戦争において奴隷解放宣言がなされたのは事実である。しかし、制度的な自由の権利付与が、社会において自由の享受に結びつくかは悩ましい。1930年代のアメリカ南部社会は、クリスマス少年がトラウマを得る程度には、解放が現実となってはいなかった。
クリスマス少年にも子どものころはある。誰にも子どものころはある。子どものころには、対人関係や対人関係が形作る共同体のような認識はない。誰でも手探りでそれにぶつかり、少しずつ傷つきながらも治癒を経てレジリエンスを身につけていく。少しずつ風邪を引きながら、耐性をつけてゆくのと同じように。その比喩で言えば、重症レベルの傷や、重体レベルの傷もあるはずだろう。そうした傷を負っているが、肉体的には何の問題がない人もいるだろう。クリスマスのケースは、心的外傷の客観的程度をどのように測定できるか、という問題を提起する。
私の場合、クリスマス少年のケースとはおよびもつかない。しかし、心的外傷の程度をどうしたら客観的に測定できるのか。測定の道具立ては、色々と開発されてはいるのだろうが、外傷を訴えるのは外傷を受けた自分しかないとするなら、どうなるのだろうか。重体の人は、多くの場合、自分で病院に行くことはできないわけだから。
あらすじ
5歳のクリスマス少年。孤児院の記憶。栄養士が使っている練り歯磨きを少量口に入れて食べるとおいしいことを覚えた。いつものように、空室で練り歯磨きを失敬しようとしていると、女の栄養士と若いインターンの男子が入ってきた。クリスマス少年は隠れた。
二人は秘め事を始めた。栄養士の方は、それでも人に見つかるまいと不安がっている。クリスマス少年は、それでも気が動転していた。いつもなら、ちょっとしか出さない練り歯磨きを、多く出してしまっていた。それを食べてしまった。気持ち悪くなる。嘔吐。
カーテンがめくられ、二人に見つかってしまった。栄養士は怒って、聞くに堪えない罵詈雑言をクリスマス少年に放った。クリスマス少年は、自分が罪を犯したのだと思っており、それを罰して欲しかった。だから栄養士のところへしばしば行った。
しかし、栄養士はそれを無言の圧力と受け取った。栄養士は、1ドル銀貨を渡してきた。それは違う。クリスマス少年は「もう欲しくない」と拒否する。栄養士は、また罵詈雑言を放つ。
栄養士はボイラー係の男に何かを告げた。ボイラー係は不可思議なことを言う。栄養士は、クリスマス少年が混血であることを院長に暴露し、この施設から追い出してもらおうとしていた。ボイラー係をその媒介にしようとしたが、ボイラー係はクリスマス少年を連れて、施設を脱走した。
栄養士は、院長に、クリスマス少年の秘密を告げた。そして、ボイラー係がそれに気づいていたということも。
ボイラー係に連れていかれる感触を、クリスマス少年は感じていた。以前、アリスという少女がいなくなったことを思い出していた。子どもたちの噂によると、どこかにもらわれていったようだ。アリスのほかにも、いつしかいなくなった子どもたちがいることを知った。
男は、クリスマス少年と逃げた。しかし、三日目には捕まる。クリスマス少年は孤児院に戻った。ボイラー係の痕跡はあとかたもなくなっていた。
ある日、院長室にクリスマス少年は呼ばれた。そこには見知らぬ男が一人いた。少年は、自分の運命を悟った。男は、クリスマス少年を引き取るというのだ。だから、クリスマス少年の親の事を知りたがる。
クリスマス少年は男のもとに連れていかれた。マッケカーン家。これから、クリスマス少年は、ジョー・マッケカーンと改名する。
感想
重い。重いことは、決して胃もたれの原因になるわけではないのだが、クリスマス少年の思いに同期すると、やはり、通常運転ではいられなくなる。
あらすじについては、かなり私の強引な解釈によるまとめ方をしているので、興味を持たれた向きは、ぜひ、岩波文庫版の『八月の光』の訳業と合わせて読んでみてほしい。特に、ボイラー係の発言や行為については、かなり省略を加えている。
栄養士がボイラー係に、あんたずっとあの子のこと見てんの知ってるからね!と言い、あの子の秘密しっているなら院長先生に言ってよ!という趣旨の要望を入れたのにたいして、ボイラー係の返事は要を得ない。
この時点では何のことかわからない。こうした曖昧な記述ともとれ、もしかしたらハイコンテクストを理解していればわかるのかもしれない表現が、日本語でフォークナーを読むときの躓きになっている。このボイラー係は、最初、私は子どもの父親なのかと思った。クリスマス少年が、成長するにしたがって、混血である表徴が出るのではないかと心配して、ボイラー係に身をやつしつつ、監視しているのかと思った。
しかし、そうではない。のちに解明されるが、クリスマスの父母は、その強権的な祖父によって、非業の死を遂げている。なんともやりきれない話である。こうした残酷な現実は、距離をとることで興味深く読むことのできる反面、感情移入してしまうと辛い。なんとなくクリスマスには、移入できる素地がある。
卒業論文を指導してくれた先生は、私たちの卒業と同時に退職した。退職年限は何歳だったのだろう。結構、お年の印象だったが、矍鑠とされていた。話も明快で、大学の講義というと眠くなる呪文のように感じるものも多かったが、その先生の講義は興奮するようなものではなかったが、淡々としていながらも味のあるものだった。
その先生は、飲み会などはあまりやらず、卒業の時に一度だけ顔を出してくれた。そのときに、どんな作家が好きですか、と聞いたら、フォークナーですね、と答えてくれた。慎重な先生が、即答だったので、妙に感心して、そのあと話のキャッチボールがうまくできなかったことを覚えている。
当時、中上健次が亡くなってしばらくした時期で、その全集刊行のために再評価が盛んになされていたので、フォークナーも中上に影響を与えた作家として注目を集めていた。技法的な面で、私などは関心を持っていて、主題的な面については、いかんせんそこまでの関心を払うことができなかった。
先生は、戦前のイエ制度の研究をしていたから、そこでフォークナーと返答したのか、それとも、何か主題的に共感するものがあって返答したのか、今でもよくわからない。
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