個とイエの相克 ~川端康成『山の音』10「鳥の家」~
この章、『山の音』の核心なのかもしれない、と思いつつ、ダウナーな気分に侵されないように、私の懐メロをそこかしこに埋め込んでいこうと思う。
なぜ、ダウナーなのかというと、菊子の「堕胎」が、この章に現れるからだ。
岡田豊氏による「川端康成『山の音』に関する一考察 : 作品内の<昭和二十五年>という年を起点として」は、菊子の「堕胎」という事態の背景にある昭和23年の優生保護法の成立、それによる堕胎罪の「空文化」と「経済的理由」による人工中絶範囲の拡大という、社会史的事象が近接している点を、指摘していて面白い。
正直、この章の修一はひどいです。モラ夫臭がプンプンします。日本の家族の崩壊を、こうした修一の戦争での傷や、妻の忍耐の緩和、小姑の傷、様々な傷によって表現していく川端康成の手腕は、面白いです。
おそらく、私の感想ですが、戦後を川端は解放の時代とは見ていなくて、様々な傷を負った満身創痍の時代と見ています。その傷とは何かが暗示的に描かれているようでなりません。
この章で示されている、菊子の意志的な堕胎も、傷の一つでしょう。
修一は「流産」と言いますが、信吾からは修一がそれをさせたように映り、修一を責めます。修一は、それをかわすために、菊子が意志的にやったものですよ、と言う。信吾は、そんなことがあるかと怒り、そもそも菊子の懐胎を、信吾も保子も房子も期待していたことは菊子も知っているはずだ、と問い詰めます。
すると修一は悪びれずに、今の夫婦の状態で子どもを産みたくないみたいですよー、とこともなげにいう。
この、ノンシャランな感じ、に対して信吾はあっけにとられ、その原因を戦場に出た心の傷に求めます。
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朝早く起きると、信吾は菊子がすでに起きて様々ことを支度している姿を眺めてほっとすることがたびたびあった。
鳶が鳴いているのに聞き耳をたてた信吾は、そのことを菊子に話すと、鳶だけではなく、烏や虫、青大将など様々なものが住み着いている家だとおどけて答えた。
ある朝、出勤で修一と話す信吾は、菊子の具合について尋ねる。昨日、東京に行って戻って来てから具合が悪そうではないかと。
流産ですよ、と修一はこともなげに言う。お前がさせたのか、と信吾は責める。修一は、自分でやったんですよ、という。お前がとめればいいじゃないか、と信吾はいう。今はだめですよ、と修一は言う。今ってなんだ、と信吾は言う。僕が今のままでは、子どもを産まないと、菊子が主張したと修一は言う。
ある日、信吾が帰ると、菊子が国子を抱いて座っていた。軍用飛行機が空を通り過ぎた。信吾は、この子は戦争を知らないのだ。戦争を知らない子がここにいるのだと驚いた。菊子の様子が変なので、信吾は国子を受け取って、休むようにいった。菊子は、少し何かを悟った風だった。
部屋に入った菊子に雑談をするふりをして、信吾はそれとなく声をかけた。菊子も理解したようだった。
翌日、菊子が里に帰ったと信吾は保子から聞いた。信吾は、保子に、理由は子どもをおろしたからだよ、と言った。房子はそれを聞いていて、私もわかっていたわ、と言った。信吾は、その口ぶりに呆れた。
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この章の読みどころは、修一と信吾の対話の部分である。
解釈が分かれる部分でもある。
基本、浮気をして子どもを産ませなかった修一に、悪意を向ける読者は多いと思う。そして、その修一を責める信吾に共感が集まるとも思う。
しかし、一方で、浮気をしている修一の子どもを産むとは、尾形家に無条件で(条件が悪いのに)属する、という意味でもある。修一は、それを推すこともできた。
修一は、自分が浮気している(自由を享受している)と同時に、菊子を家に従属させることまではさせなかった、という理解もできるのではないか。つまり、信吾は菊子の個としてのありようはどうでもいいから家庭に従属させるべき、と修一を責めているのであり、修一は自分の浮気(自由)を認めており、一方で菊子の自由(子どもを産まずにいつでも別れられる権利)も保証する、と言っているように読める。
房子の状況を見ているわけで。
もちろん、三世代の家庭が和することが、日本的なイエの理想像である。しかし、信吾はもはやそれを無理強いできないことも知っているし、修一は自分の自由と菊子の自由のバランスをとることも知っている(修一自身がイエの存続に資することを嫌がっているようにも見える)。
修一を、そのことで免責できるわけではないが、家庭への無条件での従属というある種の人々の安寧に対して、戦後という状況は「傷」をもたらし(ポジティブな意味合いでも)、それを知り、それを飲み込んだ人々にとってはある種の悲しみとして感じられるということなのだろうか。
要するに、信吾を菊子をいたわる正義の庇護者として解釈する見方、修一を家庭を顧みずそれを壊そうとする悪漢として解釈する見方、菊子を意志を持たずただ状況に流されているだけの犠牲者として解釈する見方(あるいは菊子に子どもを産んで信吾や保子に献身的に仕える生き方を期待すること)は、逆に戦前的なイエの幸福を代弁することになってしまう、という仕掛けが、この小説にはあることを指摘しておきたい。
この矛盾が生じていることを『山の音』は描き出している。