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上前淳一郎『洞爺丸はなぜ沈んだか』 ~ゆるく本を紹介する 0~

事故や事件に合わずに暮らせれば、それに越したことはない。

ふと、知床遊覧船の「事件」の報道を見ながら、そんな風に考えた。

私たちは、報道のシャワーに慣れすぎているのかもしれない。

最初に、そうした大事故の報道に接したのは、日航機墜落事件だったかもしれない。当然、それまでも事故や事件、はたまた戦争の報道というものはあったが、認識という点では怪しいものだった。

イラン・イラク戦争のことなどは、朝のニュースでおそらくは耳にしていたものの、どこか他人事だったような気がする。もちろん、小学校低学年ということもあったろうが。

日航機墜落事故のあった1985年8月、私は小学校5年生だった。翌月にはスーパーマリオブラザーズが発売され、ものすごい人気になったものだ。

しかし、8月はちょうどお盆で、サッカー少年団に入っていた自分は、練習のために田舎にも行かれず、かといって練習は午後からだったので、午前中はワイドショーなどを見ていることが多かった。

そして、ワイドショーをにぎわせたのが、日航機墜落事件だったのである。初めて、ボイスレコーダーという名前を知り、そこに記録された緊迫した状況を理解した。

元来怖がりで、怖がりゆえに出来事と直面した振りをしなくては、勇気が出なかった。初めて飛行機に乗ったのは、大学2年のときの沖縄行きであり、このときの報道を思い出して、内心は緊張していた。ただ、まわりに人がいるので、強がってみせた。そのとき書いた遺書のようなものの内容は忘れたが、最悪の事態を想定しながら物事の選択をする、というのは今になっても変わらないのかもしれない。

最悪の事態に到達しないために、どこから気をつけていけばいいのか、は永遠の課題である。

船舶事故に遭遇しないためには、船に乗らないことが一番いい。滑落しないためには、登山しないことが一番いい。熊に合わないためには、山に入らないのが一番いい。しかし、そうもいかないのが人生である。

登山に関しては、ヤマケイ新書で、いい実録がたくさん刊行されている。しかし、船舶事故に関しては、意外に知らないのではないか、と今回私は思った。航空事故には、あれほど関心を寄せていた自分が、船舶事故に関しては無関心だった。

それで読んだ本が、上前淳一郎『洞爺丸はなぜ沈んだか』である。

小説仕立てになっており、分析的なノンフィクションを期待していた自分としては、少々あてが外れたが、これはこれで面白く読めた。

洞爺丸事故とは、1954年9月26日に起きた、船舶沈没事故である。当然、私は生まれていないが、青函連絡船の歴史の中でも最大の事故である。ウィキペディアには「日本海難史上最悪」とある。映画『タイタニック』でも泣きそうな自分は、この物語に耐えられるのだろうか。

当時、日本には西から大きな台風が北上してきており、函館にいた青函連絡船は出航判断を模索していた。気象台は、注意を喚起していた。実際、函館に向かう連絡船から、海の状況に関する連絡も受けていた。

この事故は、洞爺丸だけではない他の船舶にも被害を及ぼしている。それだけでも悲惨であるのに、客船が沈んだ事故なのである。1000人以上の人が、洞爺丸には乗船していた。

まず、この事故の前提として、台風が異様だった。やたらと速度の高い台風で、進路は鳥取から佐渡といった形で、日本海側を猛スピード(時速110キロ)で北東へと進み、しかも勢力は強まっていくのである。

この台風の進路は、ここ10年の間何回かあった。その時は、異様だと思ったが、洞爺丸の事故と結び付けることはできなかった。不覚である。しかし、台風の進路と進退判断のミスは、2002年のトムラウシ山の遭難事故を思い出させる。また、1968年の飛騨川バス転落事故を思い出させる。

少なくとも庶民としては、台風のときにはなるべく外に出ず、やり過ごすのがいいということは教訓で得られる。

『洞爺丸はなぜ沈んだか』の主要登場人物は、洞爺丸の近藤船長、出稼ぎに来た原子勇・節子夫妻、アメリカから来たリーパー氏、自殺するつもりで乗船する女性・青山妙子、佐渡の味噌屋の社長、羊蹄丸の船長。

出航判断に関する慣例についても、書いてある。

管理者側は、できるだけ出航させたいが、出航判断は船長にある。それが、船長の誇りでもあった。青森から函館へ出航予定だった羊蹄丸の船長は「テケミ」(悪出航合わせ)を選択、函館から青森へと出航予定だった洞爺丸の船長は「テケミ」のち、出航を選択した。これが明暗を分けることになる。

出発か、待機か、これはどちらが悪いわけではない。実際、台風が青森や函館の西側に近づいていたはずなのに、いきなり晴れ上がったのだという。これを台風の眼ととらえたか、それともそうではないととらえたのかの違いであった。

なぜ、このタイミングで台風が一瞬凪いだのか。これが問題である。札幌管区気象台の成田予報官も、この凪を見ている。観測予想だと、現在台風は「函館の西方150キロ」のところになければならない。もしこれが台風だとすると、直角に曲がってきて、真東へとものすごいスピードで進んでいるということになる。

それはおかしい。直感か、科学なのか。

 しかし、各地の観測網がまだつかまえていない重要な事実が二つあった。ひとつは、午後三時ごろ青森県の西方海上にあった時点で台風は、西側から流入する冷気と東側からの暖気に刺激されてさらに発達し、九六〇ミリバールの中心示度を持つにいたったということだ。
 もうひとつは、午後五時ごろ函館の緯度線上にあたる渡島半島西側の日本海上へ来た時速百十キロの韋駄天台風は、ちょうどそのころオホーツク海上に現れた背の高い高気圧に妨げられて、時速を四十キロに落としてしまった、ということである。

p.101

この晴れ間は、台風が押し上げた温暖前線と、台風に寄り添う形で北東に進んで来た寒冷前線がぶつかって閉塞前線になった。この「閉塞前線のいたずら」による晴れ間だったというのだ。

閉塞前線の形成

洞爺丸はしかし、湾外で出たとたんに大きな波と強い風に遮られ、錨をおろして停泊する。風と波が船を揺らす。地図上でみると、決して、陸地から遠くないように見える。すぐ戻れるような気もする。しかし、これが海の怖さなのかもしれない。

そして、湾外に停泊していた船舶が次々に被害にあう。第十一青函丸、米軍上陸用舟艇、十勝丸、日高丸。それぞれの悲劇を繰り返すのはしのびない。

なんとか洞爺丸は耐えていたが、エンジン室に水が入り、エンジンが両方とも停止する。両方の停止を確認して、機関長は「部屋へ戻って貴重品を整理しろ。救命胴衣をつけてからやるんだ」と言う。

生き残った人がいるからこそ、その順番がわかる。エンジン停止、救命胴衣。そのまま洞爺丸は、北北東方面に流され、七重浜の砂浜に座礁することで難を逃れようとした。実際、遠浅の海岸に座礁してしまえば、転覆はない。実際に座礁した。

事故の全貌

ところがこの座礁が曲者で、台風のせいで流れてきた土砂のようなものだった。そのため、風にあおられた洞爺丸は回転し、沈没した。犠牲者のご冥福を祈りたい。

しかしながら、生存者もわずかにいた。それが救いといえば救いだ。1314人中116人が助かった。

筆者は青森港を出発しなかった佐藤船長にこう思わせている。

船が沈んだあとで、もし、を言いわけに使うことはできない。だから自分は、あらゆる条件が羊蹄丸にとって有利になるまで、じっと岸壁で待ったのだ。

p.224

何が正しい判断なのか、投資でも進退でも、誰にも分からない。結果がすべてというが、待つという判断に置いて避け得たさまざまなことが本当はあるのではないか。何も起こらない、は平凡だが最善なのかもしれない。

洞爺丸の沖合での投錨から沈没、そしてその後について、実際に本を読んで確かめてほしい。




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