梶井基次郎「ある崖上の感情」
「ポーニョ、ポニョポニョ、ポーニョ、ポニョポニョ、ポーニョ、ポニョポニョ、崖の上!」というのは、お笑い芸人の永野さんの永久保存版のネタだけれども、そんな「崖の上」の「感情」で一本書いてしまった梶井基次郎さんについて、今日は感想を述べたいなと思います。
やっぱり梶井さんといえば文学愛好家がどこかで通り過ぎる作家としては有名で、それはなぜかというと、なんたって遺した作品の数が夭折されたために少なく、全部読んだという達成感が手軽に味わえることと、新潮文庫の裏表紙に書いてあるように「特異な感覚と内面凝視で青春の不安、焦燥を浄化」する内容ゆえに、読書経験の浅い若者たちにも、共感される要素が詰まっていることが原因だと思われます。
米津玄師さんの「Lemon」という楽曲を耳にして、おじさんはやっぱり梶井さんの「檸檬」を思い出すわけですし、何というか、基次郎という名前もバンプオブチキンの藤原基央さんやRadwimpsの野田洋次郎さんを思い出させて、やっぱり大正末から昭和初期の作家なのにどこかJ-Rock感のある梶井さんは、色々なご意見ありながらも、それなりにカリスマなんだと思います。
お顔の方は、どちらかといえば近藤勇寄りの風体で、それがまた、J-Rockな雰囲気を醸し出してをるわけですが、それがまたギャップ萌えの子女にはたまらん、というものなのでしょうね。
このブログをはじめて、やっと重い腰をあげて自分の本棚を整理しはじめたわけですが、ちくま文庫の梶井基次郎全集が見当たらなくて、先日ブッツァーティを購入したブックオフの100円均一にたまたま平成15年改版の新潮文庫があったこともあり、まあジュースより安いしなと思いながら手に入れた次第。我が大人買いとは、この程度のものです。
久しぶりにそんな梶井さんの文庫を手に取る。ああ、読んだときは梶井さんが亡くなった年齢よりも若かったのに、いまや梶井さんよりもずいぶん年上になったんだなあ、という感傷をひきずりながら。若くして梶井にハマるという定型から逃れようと、ヘンリー・ジェイムズが好きで梶井は嫌いです、とかなんとか粋がっていた若者時代を懐かしみながら、「ある崖上の感情」を読みたいと思います。
あらすじ
とあるカフェで、友達同士ではなさそうな二人の男の話に聞き耳をたてる語り手。
二人のうち一人の男が、崖上から色々な家の明かりを眺めていると自分ばかりが根無し草のように感じられて悲しいが、元来窓の眺めというものには人をそんな思いに駆らせる何かがあるのではないか、という話をしている。それに対して、もう一人は窓の眺めをみていると、一人一人の運命のようなものが感じられてはかない気持ちになるという。
男たちは、この「窓の眺め」の話を進める。そこでは「人の秘密を盗み見るという魅力」のみならず「人のベッドシーンが見たい」という欲望があることを一人の男が打ち明ける。男は、そういった欲望に押されて、崖上に行く。そして窓を眺めている。そんなとき、後ろから歩いてくる足音が聞こえるような気がする。妄想だと思うものの、その人が僕を見ているような気がしてならない。さらには突き落とされそうな気がして、変な気持ちになってくるが、そこまでいくと窓の中の情事を見るよりも深い恍惚状態になってくる、ということを男はまくしたてる。
もう一人の男が、ウィーンを舞台にしたそんな内容の話を読んだと言い、話していた男が一緒に崖上までいかないか、と誘うものの、もう一人の男は応じなかった。
崖上の感情の魅力を語っていた男は生島といった。生島は、自分が居住している崖下の家に帰った。そこには、40を過ぎた「小母さん」がいて、彼女とは体の関係を続けていた。淡々とした関係に生島は嫌気を感じていた。生島は、この関係に嫌悪を感じながらも、就職するあてもなく「その日その日を全く無気力な倦怠で送っている人間」であった。
生島が崖上で見る男女の姿態に欲望を覚える男だった。それに比べて自分はと卑下していた。けれども、もう一つ空想があった。逆に、自分の男女の姿態を誰か崖上の人にみせてしまいたいという空想だった。そこから生島は、今日カフェで話していた男を思い出す。自分は男を必死に崖上に誘ったが、それはどうしてだろう。一緒にはついてきてくれなかったが、一人で彼は登ってきてくれているのではないか。
もう一人の男は石田といった。石田は、生島に教えられた崖上に行ってみようという気になっていた。足を踏み入れると、こんなところがあったのかと思うほどだった。誰かにとがめられはしまいか、という気持ちすら起こった。確かに、人々の家の窓が丸見えだ。そして、場所に到達する。「彼の知っている町の、思いがけない瞰下景」を眺め、「かすかな旅情」を感じた。
石田は一つの風景を思い出す。一人の50がらみの男が4歳くらいの男児と一緒に朝食を食べている風景だ。男の顔には浮世の苦労が陰鬱に刻まれており、落魄した男の姿を感じた。けれども、子供に対する愛情のようなものも感じられる。そして子供もまた幼心に、「彼等の諦めなければならない運命のことも知っているような気がして」ならなかった。
石田は、崖上から色々な窓を眺めた。色々な人生があるように思えた。生島に言われた「秘密を盗み見する」欲望は理解できたが、ベッドシーンなどをみてしまったら欲情するよりも、「もののあわれ」を感じてしまうのではないだろうか、と石田は思う。
生島は、崖下から、崖上に誰か人影があるのを認める。ただ、その人影は自分の妄想だろうということも一方で思っていた。その見られているという空想は生島に恍惚を与えていた。
石田もまた何度か崖上に足を運んだ。病院の窓には多くの人がベッドを取り囲んでいる情景が見えた。今日はミシンを踏んでいない洗濯屋の窓、色々探してはみたものの、生島がいうような情景には出会えなかった。そして、そんな情景を探している自分にも石田は気が付いていた。しかし、とうとう見つけた。生島が言っていたのはあれか。石田はすぐに目をそらした。そして、再度病院の窓をみると、「洋服を着た一人の男が人々に頭を下げた」のが見えた。それはおそらく人間の死だろう。
石田は、再度、ベッドシーンが演じられている窓を見たが、同じような気持ちにはなれなかった。「人間のそうした喜びや悲しみを絶したある厳粛な感情」をもよおした。「もののあわれ」なのだろうか。そこで石田は、古代ギリシャの風習である、死者を入れる石棺のおもてに、「淫らな戯れ」をしている人の姿や、牝羊と交合している牧羊神を彫り付ける営みを思い出す。
それはもしかしたら、こんな感情ゆえなのかもしれない、と石田は思う。
感想
小説的技巧としては大変粗いと思いますが、描出されていることはやっぱり鋭いですね。思い起こせば、自分も夜中に駅から家に帰る途中、等距離に何人も人が連なって歩いているのを見ると、そんな厳粛な気持ちになったりします。若い時は、自分の関心があることだけにフォーカスしがちだったわけですが、歳をとって、自分も含めた社会全体を俯瞰するような目線を獲得できたということかしら。上から目線と言われちゃうのかもなあ(「小説的技巧としては大変粗い」など)。
石田の感情については、若いときはわからなかったけれども、年をとると、もはや他人の姿態をみたところで何の感情も湧きあがらないので、なるほど、よくわかるようになりました。昔は、なんやねん、と思ってたなあ。
昔は、たぶん、窓に映る人生を盗み見る=小説を読む、と介して、梶井の読書論を無理やりに引き出していったことを、はっと思い出しました。そして、石田と生島は双生児であり、江戸川乱歩的な主題が、梶井の中に満ちているという話もした覚えがあります。うーん、思いつきに過ぎるぞ、自分。当時はやれパノプティコンだとか、ジョルジュ・ペレックだとか、横文字を使いたがったものです。はてさて。
Wikipediaには「ある崖上の感情」に関する記事もあり、おおよそのことは書かれていて、さほど、自分が思いついたことに新味のないこともわかります。でも、非常に詳しいですねWikipedia。今思うと、梶井さんの同世代には、中野重治や蔵原惟人、小林秀雄なんていう人もいるんですね。もう少し長生きされていたら、堀辰雄さんのようになったか、小栗虫太郎さんのようになったか、わからんですね。「ある崖上の感情」には、どちらにも分岐できるテイストがあるように感じました。
今、読み直すと、昭和初期なのに読みやすいですね。少なくとも竜胆寺雄なんかの作品と比べて格段に読みやすく、現代みがあります。だからこそ、それらは一種の軽みとして、あるいは共感しやすさとして、現代にまで読み継がれているポイントなのかもしれないですね。まあ、梶井が好きだという若者が今どれほどいるかはわからないのですが。実際、我々が若者だった90年代の文学部界隈だって、どの程度いたかわからないのに。
なんだか梶井さんを語ると、どうしても文体が軽薄な感じになってしまいます。48歳として、もっと格調高いものを書かなければ…と煩悶しています。あの町田康さんだって、以前に比べたら、ずいぶん格調高い調子になってきたのではないかしらん。だったら俺だって、と思う次第です。生まれてすみません。
追記
でも、やっぱり、生島の下宿先のウィドウとヤってる設定は、何度見ても、ちょっと苛立ちます。若い時はふざけんなと思うし、歳を取ったら、オメー就職先探せよ中二病、と思う次第です。