生活維持省と郵便的不安について

星新一の『ボッコちゃん』に「生活維持省」というディストピアものがある。犯罪や交通事故、病気や自殺までもがない「平和」な世界が描かれている。ただしその平和は、政府の方針に基づき毎日ランダムに国民を「間引く」ことで維持される。そして生活維持省に勤める主人公の職務は、毎日コンピュータに選ばれた人を殺すことである。

このエピソードは、2022年にNHKでドラマ化された(主演:永山瑛太)。僕はこの映像を原作よりも先に見た。シリーズの中で最も強く印象に残っている。自分がこの世界に生きていたらと想像したときの何ともいえない不安感。これがいまひとつ言語化できないでモヤモヤしていた。

毎日一定数が死ななければならない。そのn分の1に自分がいつ含まれてもおかしくない。「生活維持省」の世界に生きる人々は、このような不安を抱えながら生きていることだろう。けれども、僕たちだっていつでも死ぬ可能性がある。たとえば警視庁の統計によると、年間で5万人に1人が交通事故で亡くなっている。1/50,000=0.002%の確率。案外高い。

統計的に一定の確率で犠牲者が出ることは決まっているものの、それが誰にもたらされるのか分からない。この事態が生み出す確率的=統計的な不安を、東浩紀は『観光客の哲学』の補遺で「郵便的不安」と名付けている。「生活維持省」を見て感じた不安は、まさに郵便的不安だ。

郵便的不安は、存在論的不安と対置される。存在論的不安とは、誰しも生まれた時から死ぬ運命にあるもののそれがいつやってくるのか分からないという、認識の不完全性から生まれる不安を指す。かけがえのないこの私の固有の生が失われることに対する不安である。

このふたつの不安の違いがなかなか理解されない、郵便的不安を存在論的不安に混同されてしまうと東は嘆いている。どちらも「死への不安」と大雑把に捉えてしまうと、たしかに差異は分かりにくくなる。「生活維持省」はフィクションではあるが、大いに理解の助けになる気がする。

僕はもっぱら在宅勤務なので、家族のことを見送る側であることが多い。ゆっくり起床して見送れなかったとき、ふと星野源の「布団」の歌詞を思い出すことがある。

いってらっしゃいが 今日も言えなかったな
車にはねられたら どうしよう
おはようが 今日も言えなかったな
今夜の料理はいつもの二倍よ

星野源「布団」

ただただ家族が0.002%に選ばれないことを心の片隅で祈りながら、今日も夕飯を作る。

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