漫画みたいな毎日。「クリスマスの朝には、魔法がかかっている。」
子どもたちは、クリスマスが大好きだ。ついでに、お正月も大好きだ。宗教入り交じる、年末年始である。
クリスマスの成り立ちとか、そういったことより、街がクリスマスに向けて彩られていく様子が好きなのではないかな、うん、なんだか、キラキラしているし、なんとなく、その中にも厳かさもあるよね、と思いながら、はしゃぐ子どもたちを眺める。
私の中では、残念ながら、子どもの頃のクリスマスは、あまり良いイメージがない。
サンタさんにお願いしたはずのバービー人形が、サンタさんの長靴に入ったお菓子になっていた。その時のがっかりした気持ちを思い出すと、今でも胸が締めつけられるような、嫌な感覚になる。大袈裟かもしれないが、私には、それくらい期待を裏切られた感があったのだろう。
クリスマスイブには、父が七面鳥のローストをどこからか買って帰り、母がバタークリームのケーキを買って用意してくれた。
しかし、見慣れない七面鳥の丸焼きは、生きていた頃の姿を連想させ、元々お肉が苦手だった私は口にすることが出来なかった。大半が残り、翌日には、買っていた猫たちのご馳走になっていた。勿体ないのか、勿体なくもないのか。
バタークリームは母方の母が好きだったらしく、その祖母が亡くなっても、その名残が続き、ケーキといえば、バタークリーム。
甘いものが苦手な上にバタークリームの癖がどうにも好きになれず、クリームを綺麗にフォークで削いで、スポンジだけを食べていた。さくらんぼに似せたあまりにも真っ赤な甘いゼリーのような飾りも、不思議な味がする、見た目との味のギャップがあり、食べることが出来ず、全部脇に避けた。
母がバタークリームケーキの呪縛から解き放たれ、生クリームのケーキを買ってくれた時の喜びは忘れない。そして、大人になり、美味しいバタークリームケーキの存在を知ったときの感動も。
これは、クリスマスのせいでも、サンタクロースのせいでもなく、昭和という時代や、親の世代の感覚の違いだったのだと今では理解できる。
しかし、子どもであった私には小さな棘となり、刺さったままになっているのだ。先日も、横浜で買い物をしていて、サンタブーツのお菓子を見た姉が、「あ、けいこが嫌いなやつだね。」と笑っていた。
クリスマスの記憶とは、私の中の「親に自分の気持ちを受けとめてもらっていない記憶」なのだ。何が欲しくて、何が好きか、それを聞かれることがなかったという記憶。サンタブーツも七面鳥もバタークリームのケーキもそれを具現化したものなのだろう。
話を昭和から令和に戻そう。
我が家の子どもたちは、サンタクロースの存在を信じている。
中学生に、なった長男は、やや疑わしく思っているようだが、「サンタクロースは居ないのでは?」という明言はしない。
言ってしまったら魔法が解けてしまう、そんな感覚なのだろうか。
そんなことで、今年も子どもたちのリクエストを事前に聴き取り調査する。
二男は、大好きなレゴ。末娘は、お散歩できる電池で動く犬のぬいぐるみをリクエストし、二人は手紙を書いて早々に窓に貼り付けている。
長男は、「レーザーカッター」だの「3Dプリンター」「雪山で耐えられる寝袋とテント」だのと言っているが、それは叶わない事を承知で面白がっているように見える。プレゼントが欲しいなら早く決めて欲しい、手配が大変だからと思うが、出掛かる言葉を飲み込む。
大人の現実的な気忙しい気持ちを、宥めるかのように、二男がふと、こんな事を言った。
「クリスマスの朝って、なんだか特別な感じがするんだよね。」
それは、プレゼントが届くから?と、夫が尋ねると、
「う〜ん・・・それもあるけど、そういうことだけじゃない気がするんだよね。プレゼントがあるからだけじゃなくて、なんとなく雰囲気が違うんだよ。」
他にはそういう感じの日はないの?と、夫が再度尋ねると、二男はちょっと考えて、
「う〜ん、ない。クリスマスの朝だけ。」
これは、魔法ではないだろうか。
クリスマスの朝には、何かしらの魔法がかかっており、その朝だけ、子どもたちが身体全部で感じる何かがある。
もちろん、それは目には見えない。
一年に一度だけの魔法。
誰が使う魔法なのか、
何のためなのか、
誰も知らない。
どんな効果があるのかも、わからない。
その魔法の効果は、大人になってもクリスマスの朝の特別な空気を忘れない、解けない魔法なのかもしれない。
私は、その魔法の中で、子どもたちと一緒にクリスマスの記憶を上書きしているのかもしれない。
今年も素敵なクリスマスの朝がやって来ますように。
学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!