レシピも、学びも、ものすご~く個人的なことだよね。という話。
長男が幼稚園児だった頃、お誘いがあって、マクロビオティックの料理教室を開いていたことがあった。
マクロビオティックを生活に取り入れたのは、体調が優れないことが多かった頃に、整体師の方に「玄米食」を勧められたことがきっかけだった。夫など今でこそ玄米が自分の体に一番合うと思っているようだが、当時は夫婦二人とも、玄米について「糠臭い」「モソモソ」「健康のための養生食」といったイメージしかなく、白米最高!白米こそ日本の宝!と思っていた。「どうしたら、自分好みの玄米が炊けるのか?」を夫と試行錯誤した。
そんな私も、玄米を食べ始めたら、体重も減り、体調も良くなり、玄米が美味しく感じられ、今まで食べていた魚や肉、乳製品が合わないと感じるようになった。加えて、夫がアレルギー体質で、卵なども食卓から姿を消した。
マクロビオティック=我慢食。地味で美味しくない。病人食。というイメージも当時は少なからずあった。厳密に治療に応用する場合は一定期間、そのような食事になることもあるだろう。「身体に良いこと」という文言より私と夫にとっては、「美味しいこと」が最優先だった。
マクロビオティックのレシピ本を買っては、作ってみる。聞き慣れない材料が沢山ある、工程も多い、出来上がった物が自分の思っていたものと違う・・・ということがよくあった。
「もっと、こうしたらいいかも!」「これは入れなくてもいいんじゃない?」「コレで代用してみようかな」と試行錯誤しながら、日常で使えるレシピへと姿を変えていった。それを繰り返し、自分のレシピが出来上がっていく。自分たちが美味しく感じ、毎日の生活の中で続けられること。それが私たちのマクロビオティックであったと思うし、それは今も変わらない。
レシピとはあくまで、出発点であり、「脱線厳禁の線路」ではない。それをどう活用し、自分たちの生活をどう発展させるか、の方が大切だということを、マクロビオティックから学んだと思っている。
今でも、作ったお菓子や料理をお裾分けすると、レシピを聞かれることもあるので、参考になればと思い、お伝えしている。
福島のマクロビオティックレストラン「タンボ・ロッジ」さんの料理教室の参加させていただいたことがあった。南米を旅した時に、シェフたちは、自分のレシピが広まることこそ栄誉!という意識でレシピを気軽に教えてくれたのだそうだ。
そのお話を聞いた時、「レシピを教えない」というのは、企業秘密のようなもので、どこか当然だと思っていた自分に気がついた。自分もレシピを教えることを、どこか躊躇していたのだ。
しかし、同時に、多くの方の料理をいただくなかで、「レシピがあったとしても、全く同じ味にはならない」と感じていた。譜面があっても、どのような音楽を奏でるかは、その奏者次第。レシピは、あくまで譜面でしかない。
その時から、「自分のレシピを誰にでも気軽に使ってもらえたらいい」と思うようになった。私のレシピを譜面にして、それぞれの音楽を奏でたら、世界はちょっといい感じになるかもしれない、と思ったのだ。誰かと同じように作る必要などないのだから。
ここまで料理やレシピのことを書いてきたのだが、書きたかったのは、「学び」のことだ。
時に、急に学校に行かなくなった自分の子どもを心配した知人などから、「Kくん(我が家の長男)はどうしてる?」と聞かれたりする。とりあえず、彼の現状を伝えるが、正直、あまり役に立たないだろうし、参考にならないのではないかな、と思う。あくまでも、彼の育ちの中での学びの形だからだ。
学びは、とても個人的なものではないだろうか。
自分たちで考えるしかない。ハウツーなどない。その時の子どもの状態、子どもの性格・・・兄弟、姉妹であっても、同じことはひとつもない。私は、夫と子どもたちと、自分たちの生活の仕方を毎日模索している。そこに変わらず在るのは「何かを選択したことによって、起きる事柄を受け入れていく」という意志だけだ。
レシピが出来ていく過程と、学びの過程は似ていると思う。
様々な基盤があって、誰かをそのまま真似たとしても、上手く行かないことが多いと思う。そのエッセンスをどう取り入れるかによって、「自分だけのもの」になる。
譜面があっても、奏でる人によって、その音色は全く違うものになるのと同じように。