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漫画みたいな毎日。「味覚と嗅覚がずっと生命を守ってくれていたという話。」
この2週間程、家族の中で感染症が拡大し、どうにもならない日々が続いていた。私が発熱したのは、15年、いや、20年ぶりだろうか。
「お母さんは、風邪を引かないように何か法律が定められている」
都市伝説めいたものが、我が家の子どもたちの間で語られるほど、私と発熱は無縁だったのだ。
鬼の霍乱。
鬼嫁も感染症に罹る。
そんなことを今だから笑って言っていられるが、高熱と喉の腫れに苦しんでいた時期には、「今まで、どうやって喉が痛くないと感じて水を飲んでいたのだろう?」と思い出せなかった。喉は細胞の表面が剥き出しになって、僅かに触れれただけでも、飛び上がるくらいの痛みを感じる気がした。喉の痛みで何度も目を覚まし、眠れなくなった。
数日前までは、あたりまえのように、水を飲み、あたりまえのように眠っていたのに。
できなくなって、あたりまえに行われていた日々の営みに驚く。人間って、いや、私って、愚かだな、と思いながら喉の痛みをしみじみと感じる。
熱が下がり、喉の傷みも治まり、やっと水が違和感なく喉を通るようになり、ふと感じる違和感。
・・・あれ?味がしない?匂いもしない?
試しに家の中の色々な食べ物の香りがするだろうかと鼻を近付けてみるものの、無臭。
キムチも糠漬けも、まったく匂わない。
これには、流石に衝撃を受けた。
そこにあるのは「無」だったから。
まさかの無臭生活。
CMなどで、無臭生活をというものを見聞きすることもあるが、本当の無臭生活とは、自分の周りに匂いがないということは、なんとも不思議で奇妙で、不安なものだ。
お他所の家から立ち昇る夕餉の匂いも、天気で移り変わっていく空気の匂いも、なにひとつしない。
暮らしの中の色がひとつ欠けている感じがした。それは、とても大事な色であるように思える。私の暮らしの中に、欠かせない色。
冷凍していたスコーンを温めようと、グリルに入れていたが、「ねぇ、お餅でも焼いてるの?」という長男の声で慌ててグリルの戸を引いた時には、スコーンは観るも無惨、真っ黒な塊と化していた。
焦げた匂いもまったくわからなかった。
こ、これはマズイ。
もし、火が出ても、私は気が付かないだろう。煙の匂いがしないのだから。
そして、食べ物が傷んでいても、気が付かず、口にするだろう。
熊が周囲にいても、その獣臭に気が付かなければ回避することもできない。
味と匂いは、生命に直結していたのだ。
そんなあたりまえのことを、自分の体験として感じているこの数日。私は、味覚と嗅覚にずっと生命を守られてきたのだ。
「味覚と嗅覚が戻ったら、美味しいお寿司と涙が出るくらい辛~いパキスタンカレーを食べに行こう。」
そう心に誓いつつ、カレーの匂いも味もしないけれど、夕飯にカレーを作り、記憶の中のカレーの味で夕飯を囲むのだった。
ヘッダーはみんなのフォトギャラリー・陽菜ひよ子さんのイラストをお借りしました♪ありがとうございます♪
美味しいお寿司が食べたいです!笑
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