母がドクターヘリで運ばれて気づいた「家族っていうよりも仲間だ」ってこと〜後編〜
母が救急搬送されてからもうすぐ2週間が経とうとしている。
お陰様で順調に回復し、短い時間だが電話もできるようになった。突然の嵐が終わり、だんだんと“次の始まり”を考えていく時期。今までどおりではない退院後の生活を、私たち家族は考えていくのだろう。
「青天の霹靂」と「心配ごとの8割は起こらない」は、私の中でワンセットだ。どちらか一方だけでは足りない。あれこれ心配していることのほとんどは起こらないけれど、思いもよらない出来事があるのが人生。考えうるリスクが出尽くしたかな〜と余裕ぶっこいているところに、急に雷(=霹靂)が落とされるから人生は面白いのかもしれない。
母の大病はけして面白くはないけれど、私の人生をさらに味のあるものにした。ダシの効いた自然な美味しさ。それがしっかり染み込んでいくかは、これからの私の行い次第だと思う。
「親孝行なんて何もしてない。何でもしてあげたい」こう強く思ったのは、30年近く生きてきて今回が初めてだった。孝行なんてしなくて良いと言う親を振り切ってでも、楽をさせたい。自ら進んで家事をやろうとしなかったし、旅行にも行かせてあげられなかったから、もしまたチャンスをもらえるのなら……。母が運ばれた町へ行く特急電車の中で、私の思考だけがぐるぐると行ったり来たりしていたのを今でも思い出す。
“孝行したい子ども”のスタートラインに、やっと辿り着いたのだと思う。それは、「元気に生きてるだけで親孝行」では済まされない事情がある人を、どうやって理解していくか?と試行錯誤する道のスタートでもあった。片親とか病気とか貧しさとか、そこから目を背けないで親を大事にしたいと思う人の気持ち。周りからは良い親に見えないのに、長生きしてほしいと願う子どもの気持ち。今回の経験がなければ、そういう気持ちをわかろうとさえできなかった。
ただ、それでも強く思うのだ。自分の人生を生きて、と。
過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。何事もやりすぎは駄目だ。親孝行したい気持ちが強い人は、「他者あっての自分」という思考を思い切って一度すて「自分あっての他者」思考をもってほしい。
第一私は恵まれた家庭で育ったから、そうではない家庭について深くは語れない。それでも側から見ていて色々な親子関係があるな〜と思う中で、孝行がいつの間にか服従になってしまう人も、世の中にはいるんだろうなとも憂いている。
どんなに仲良しでもそれなりに隔たりはあるものだ。特に最近は人々の価値観や環境がみるみるうちに移り変わって、不確実な社会。それを敏感に察知する人としない人、仕事や生き方への考え方を変える人と変えない人の隔たりは深くなっていく。ただでさえも変わりやすくて難しい社会なのに、そのうえ親子関係は人類が誕生してからずっと難しいのだ。それに輪をかけるように、母と娘には説明しがたいナニカがある。
ええい!いっそのこと、こちらの頭を変えよう!と誓ったわけではないが、母が運ばれてある時突然、それは降ってきた。
「家族っていうより、仲間だよね」
親だから、必ず老後の世話をしなければいけない。家族だから、多少自分が我慢しても助けなければいけない。こんな風にあなたは、家族だから親だからと思って自分で自分の道を狭めてはいないだろうか。たとえそれを親や家族が望んでいたとしても、あなた自身が納得して行う手助けだとしても、どこかに見覚えのない苦しさが転がってはいませんか。
その苦しさは、いつかあなたが最後に目を閉じる日、後悔を連れてくるかもしれない。
目に見えなくても確かに太く存在するもの。それが血縁。わざわざ意識しなくたって血の繋がりは消えないのだから、「〜しなきゃいけない」思考を捨てたって大丈夫。その代わりに家族を仲間と思えば良い。
仲間という言葉が私は好きだ。同じ志を持った自立した人たちが集まっている、という感じ。会える時に会って、お互い必要な分だけ支え合う。依存とはほど遠い潔さがある。
生きてる人は大体自立してる、そうでなきゃとっくに死んでる。あなたがいないと生きていけないように見える人だって、案外しぶとく生きていくものだ。相手の人生のために自分を犠牲にする必要なんて、絶対にないのだと言い切りたい。
血縁は消えないけれど絶対大事でもない。仲の悪い親子がいるのなら「昔一緒に暮らした仲間だったんだな」くらいの気持ちでいたらいいのだと思う。昔の仲間が困ってどうしようもなくなったら、少し助けてやるかってくらいの心持ちで。
“家族だから〜しなければならない”というもはや信仰にも近い価値観を静かに置き、“仲間だから〜したい”をそっと拾い上げること。これに気づけた電車でのあの瞬間、肩の力がふっと抜けた。これからも私はきっと大丈夫だ、そう思った。
「家族というより、仲間だ」の気持ちに触発された私は、実家でやれること(作り置きおかずを大量に作ったり、掃除したり)をとにかくやって自宅に戻った。母の手術が成功してからずっと父は饒舌だった。たまにはにぎやかな運転者も良いなとしみじみしつつ、後部座席の窓から懐かしい景色に目をやりながら、少しずつ自分の生活に戻っていった。
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