時が積もる。
2024年になった。
2023年はここ最近で1番書かなかった年だったかもしれない。ずっと続けていた日記もnoteも、趣味で書いていた恥ずかしい小説なども。
ただ仕事を毎日一生懸命して、人生で初めて他人(ひと)と暮らし始めて、2人分のごはんをつくり、おいしいねとその日にあった出来事を会話して、食器は洗ってもらい、同じベッドで眠る、の繰り返し。たまに気に入ったインテリアを買って、観葉植物を育てたり彼の家族に会いに行ったり自分の家族に会ってもらったりした。なんというかこう、すごく「生活」をした1年だったなあと思う。ふわふわと空想と理想の中を生きていた私が、ぐっと「現実」を生きたそんな2023年だった。
2023年の初めに書いた日記帳を見返したところ、どうやらわたしは「生活を大切にする」というのをこっそりと2023年のテーマにしていたようだった。洗濯をする。ごはんをつくる。たべる。部屋掃除する。お金を管理する。そういったことを丁寧に自分らしくする癖をつけよう、と書いてあった。
なんとなく2023年はなんもなかった、なんも成長した気がしないと年末のわたしはやるせない気持ちになっていたけれど、それは目標にしていたことが今ではとっくに当たり前になっていたからかもしれない。
生活をする、というのは、すごく普通のことに感じる。
だってみんなごはんをたべるし、ねむるし、洗濯をするし、「生活」をしているから。けれど、そのいかに大切なことか。だってそんな1日1日が募って積もって、自分になっていくんでしょう。
わたしたちはいつも、何か非現実的なことが、何か特別なことが起きることが「幸せ」なのだと思ってしまいがちだ。
結婚した、有名になった、転職が成功した、子供が生まれた、、何か新しいことが起きないと成長した気になれないし、何か大きな転機が起きた人のことを羨ましいと思ってしまう。
けれど、人生はドラマとか映画じゃないのだ。ドラマや映画はなにか転機が起きて、何かを乗り越えて成長して終了するからあたかもそれが私たちにも必要で、それがないとつまらない人生に思えてしまうのかもしれないけれど、人生というのは、つづくのだ。
結婚した先に、有名人になった先に、転職した先に、子供が生まれたその先に、みんなだれしも「生活」がある。
ドラマじゃないから、映画じゃないから、人生だから、全部その先の「生活」を送っていくこと。むしろそちらに幸せのヒントがあるはずなんだと思う。
2023年、私にそういうものは全くといってなかった。激動(といっては大袈裟かもしれないが)の2022年に比べて、2023年はほんっとうに全く何も無かったと思う。と思っていた。
けれど。
2022年に起きた転機の余韻を、無駄にしないよう一生懸命生活してきたじゃないか。
2022年に取り組んだ大きい仕事が評価されて昇進した。そのあと、周囲の求めてくる仕事のレベルも内容も今までと変わって混乱してしたけど、頑張ってこなしてきたじゃない。
2022年に大きな出会いをしてその人と今一緒に住んでいるけど、毎日一生懸命向き合ってきたじゃない。
何も変わってないように感じるけれど去年起きた転機がこぼれ落ちないでまだ手のひらに残っているのは、今年一生懸命必死で留めようと生きた私のおかげじゃないか。
現状維持、というのは確かに何も変わっていないということだけれど、何も変わらないでいられているのはそれらを手放さないように一生懸命生きた自分のおかげなんじゃないんだろうか。
生活を送るのは普通のことにみえるけれど、そんな普通の毎日でも何かを感じて、何かを選択して、何かを犠牲にしたり得たりしながら生きている。
変わり映えしないようにみえても、心の中には絶対、きっと、成長のかけらが積もっていっているはずだなんだと思う。
2023年、一生懸命生活した。
仕事をして、家に帰って家事をして、眠って、また仕事に行った。
それだけしかしていないけれど、書きたいことがたくさんできたみたい。
変化した年よりもむしろ、変化のない年のほうが、地味に見えるからこそ感じることが、心が動くことがあるのかもしれない。
2024年は少しずつ、また書いていける年にしたい。