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『一杯のおいしい紅茶』──ディストピア小説の金字塔、ジョージ・オーウェルの意外な一面


ディストピア小説『一九八四年』や『動物農場』で有名なイギリス人作家、ジョージ・オーウェルのエッセイ集。おもに晩年である1945年〜1948年に書かれたエッセイが集められている。(と言っても早世なので40代なのだが)

題名になっている『一杯のおいしい紅茶』は、本を開いて一番はじめに載っているエッセイのタイトルだ。この篇では、オーウェルの考える最強の紅茶を淹れるために、守らなければいけない11項目を挙げている。いきなり、想像上のイギリス人っぽくて面白い。

特にこだわりが感じられて少し笑ったのは、ポットをやかんのすぐそばに持っていかなければならず、その逆ではいけないというもので、さらに「お湯は葉にぶつかる、まさにその瞬間も沸騰していなければだめで、となれば注いでいるあいだも下から炎があたっていなければいけない」らしい。一歩間違えたらやけどしそうである。いかに紅茶に熱量を持っているかが分かる。

と言っても本書は、一冊にわたって紅茶のすばらしさを語る本ではない。イギリスで暮らすうえで考えた身近なことだったり、友人への手紙だったり、作家として身を立てることについてだったりと多岐にわたった内容だ。

自分のなかのジョージ・オーウェルのイメージは『1984年』の印象で形成されていたから、読みはじめて少し面食らった。ロンドンのジャンク・ショップに詳しかったり、自分で畑を耕したりとだいぶ庶民的なのだ。

本書はオーウェルのよく知られた顔である政治的な面より、個人的な生きかたや好みがうかがえる内容をあつめたという。政治的な色のつよい物語を書く人は、常に政治のことを考えて怒っているわけではなく、生活があるから政治があるのだということを実感できる。


もっとも気に入っているのは、オーウェルがひいきにしているパブについて事細かに語るものの、最後に驚きの事実があかされる『パブ「水月」』、今日のイギリスのユーモア文学が上品で優しすぎることを嘆きつつ、面白いというのは権力者をどすんと椅子からひきずりおろすものであり、その狙いは人間をおとしめるのではなく、はじめから堕落していることを思い知らせる点にあるのだと展開する『おかしくても、下品ではなく』、オーウェルがいつからどのように書くことに興味があったかや、文章を試行錯誤する様子が知ることができて自伝的な要素をもつ『なぜ書くか』だ。

この3篇だけでもそれぞれが違った意味で興味深くて、オーウェルの引き出しの多さを感じることができる。


文豪というとなんだが破天荒で派手な生活を送っていたイメージがあるが、本書から垣間見るかぎりオーウェルは地に根を下ろした生活をしていたようだ(戦後で物資が少ないという、時代的な理由も大きいかもしれない)。

市民の生活をよく観察していて、真冬に燃料が不足して凍えたり、徐々にイブニングスーツが廃れてきたりと、戦後イギリスのリアルな雰囲気を味わうことができる点でも楽しめる一冊だ。



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