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舌打ちから「想像力」を学んだ話
「チッ」
舌打ちが聞こえる。
それは明らかに私に向けられたものだった。
普段なら気にしながらも「ままあることよ」と流せるのだが、そのときばかりはできなかった。なんたって原因が分かっているから。
罪悪感に潰されそうになりながら、私は電車に乗り込んだ。
電車は苦手だ。
特に朝なんて悪意が飛び交うように見える。
大勢が詰まった箱の中で多くの思惑が絡み合う感じがする。
絡まってもつれて、解こうと強引に引っ張って、糸が切れるギリギリのところで降りていく――。そんな光景を何度か見てきた。
電車とは、自分も含め、人の悪い面がよく見える場所だと思っていた。
つり革が揺れる。
荷物を両手に抱きながら悪意のない世界について考えてみた。
「想像力を働かせてください」
唐突にそう言われたら何を思い浮かべるだろう。
革新的な商品だろうか。
未来について考えるだろうか。
或いは、現実には有り得ない物語を創り出すだろうか。
私はこの言葉に「夢」的な印象を持っていた。
漫画で見られるような、想像の雲が浮かぶイメージである。
「想像力」とは、現在または現実に存在しないものを想起させる言葉だと思っていたのだ。
しかしそうではなかった。
想像力とは生活に使うもの。
持っている、持っていない、ではなく働かせるもの。
広い想像はひとの心、そして世界を棘のないものに変える力がある。
私は一度の舌打ちによって、それに気付かされることとなる。
そのとき、私は階段の中盤に差し掛かっていた。
持ち上げられるギリギリの重さのスーツケースを持って。
そう、これが舌打ちの原因だろう。
決して旅行に行くわけではなかったが、
大きな荷物を階段で運ぶ女子大生――。
いかにも苛立ちの的になりそうである。
改札を潜ってから、立ち止まれば迷惑が掛かると足を進めたのが良くなかった。
そのまま流れに逆らえず、ホームに降りるエレベーターを見つけられなかったのだ。
見えるのは反対側のホームに続くエレベーターと、階段だけ。
電車の時間も迫る。
スーツケースを持ち上げてみた。
できないことはない。
心を決めて階段に向かう。
しかし数段降りてすぐに後悔した。
これは危ないかもしれない。
そう頭を過ったがもう遅い。
ラッシュを避けたことが仇となって駅員さんも見当たらず、このまま慎重に降りるほかなかった。
踊り場に着くまでが何十分にも感じられた。
そんな中でも周りには気をつけていたから、危なっかしいと言えど、人の流れを滞らせてはいなかったと思う。
それでも目に付いたのだろう。スーツの方が近づいてきて、傍で舌打ちをした。
明らかな悪意に怒りではなく恐怖が湧く。
ごめんなさいという思いでいっぱいだった。
もしかしたら流行りのGo Toを使って遊びに行く奴だと思われたのかもしれない。
働く一方で、遊びに現を抜かす奴が気に食わなかったのかもしれない。
その上、頼りなく降りる姿が気に障ったのかもしれない。
苛立ちをぶつけたい気持ちも重々わかる。
それでも真っ直ぐ向けられた悪意がじんわりと体に広がって、手の先が痺れるような感覚に包まれた。
家族は近くに居らず、このコロナ禍で友達に助けを求めるのも躊躇われる。しかし運ばねばならない。
ひとり荷物を抱えた若者を前に、そんな事実を想像するのは難しいだろう。
想像される側に立ってやっと気づく。
自分本位にも広い想像力を持ってほしいと思ってしまった。
皆があらゆる可能性を考えられたら、きっと朝の電車は少しだけ優しい空間になるだろう。意識するだけで、まずは自分のストレスが減るだろう。
ひとつの苛立ちが行動に移されなければ、
ひとりひとり相手を察することができたなら、
糸は絡むことなく消えていくのではないか――なんて、理想論だろうか。
そんなことを思いながら電車に揺られる。
その傍らで先ほどのホームに繋がるエレベーターがないことを知って、
「助けてほしかったな」
なんて思いが湧いた。目障りだったと思うけれど。
想像力とは未来に向けるだけでなく、現在に働かせることができる。
改まって使うものではなく、常に意識するべきものだった。
こうして私は舌打ちから、生活に役立つ想像力の使い方を学んだのである。
そうして自分とひと、社会のためにやさしい想像力を使おうと誓った。
荷物を運ぶ話には続きがある。
電車は目的の駅に止まった。
全ての人を見送ってからスーツケースを引き始める。
ふと私に向く視線を感じた。
「また同じ目か」
視線を伏せて、改札へ続くエレベーターに身を隠す。
改札を抜けて地上に出るエレベーターに向かうと、運よくその扉が開いていた。
有難いなんて呑気に思っていたら、その中には先ほど私を見ていた女性が乗っていた。
咄嗟に
――怖い
と思ってしまった。
また怒られるかも。嫌な思いをさせるかも。そんなことを思いつつ会釈をした。
下げた目線が彼女の手を捉える。
彼女は≪開く≫ボタンを押していた。
そのひとは私が乗るだろうと予想して、奥まったエレベーターの扉を開けて待っていてくれたのだ。中から私の姿なんて見えないのに。
その優しさに涙が零れそうだった。
どうして一瞬見かけた自分のために動けるのだろう。
どうして疑いもせず親切を向けてくれるのだろう。
感謝の気持ちが心を満たして、降りる際は私がボタンを押そうと決めた。
その決意は彼女の「先どうぞ」というジェスチャーに打ち消されてしまったのだけれど、せめてもの感謝のしるしとして
「ありがとう!」
と声を掛けた。
彼女は海外の方だったから、もしかしたら日本語じゃ伝わらないかもしれないとマスクに手を掛けて、笑顔で言った。
彼女も笑って返してくれたから、きっと伝わっているだろう。
軽快に荷物を引く。あっという間の家路だった。
お風呂場で黒く染まった膝に気が付いた。
どうやら荷物を持ち上げるときに使っていたらしい。膝小僧一体に痣が広がっていた。
触れば鈍い痛みが走ったが、
それさえ愛おしくなるほど、私は彼女の親切に溶かされていた。
彼女はきっとやさしい想像力を使ってくれた。
それが自分に向けられたことが嬉しくて、にやけ顔のまま湯に潜る。
そうしてこの出来事を文字にしようと決めた。
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ある日の出来事。
とても嬉しかったのでここに残します。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。