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『注文の多い料理店』には遅効性の毒が盛られていた。


宮澤賢治が苦手だった。

現実味がなくて、かと言ってフィクションとも言い難い生々しさを持っていて、
ふわっと終わる彼の小説は私の好みではなくて避けてきた。

しかし私は彼に変えられる。
たった半年で「自分の文章」を書くまでになる。
『注文の多い料理店』で想いを知り、
『なめとこ山の熊』や『よだかの星』で涙した。

時間を越えて蝕む呪いのような魅力を、ここで紹介したいと思う。
あわよくばこれを読んだ方が、彼の作品を読み返してしまうよう願いを込めて。



半年ほど前、私は大学で文学の授業を選択した。
専攻は芸術だけれど本を読むことは好きなので、抽選で決まるその授業が当たったら良いなと思っていた。
運よく希望が通り、授業が始まる前にアンケートが取られた。
それは好きな小説家や最近読んだ小説、映画などを聞かれるもので、「なんて楽しくて私得なアンケートだ」と枠いっぱいに回答したことを覚えている。そして授業が始まるまでの一週間をウキウキしながら過ごしたことも覚えている。

来たる初回。
楽しみにしていた講義が始まった。
文書のみの授業だったのでその実感は湧き辛かったけれど、顔も声も知らない先生の柔らかい文体に惹かれて読み進める。
かなりページ数があったので「これは先生相当大変だろうな」と他人事な感想を持ちながら最終ページに辿りついたとき、私の表情は固まった。

次回までの課題:『注文の多い料理店』を読んで、感想、批評、疑問を全く自由に寄せてください。

――全然楽しくないな。

そのとき浮かんだ率直な感想がそれである。
宮澤賢治にも先生にもあまりに失礼だけれど、冒頭の通り私はずっと彼の作品が好きではなかった。
走って消えていったとか、星になったとか、それまであったたくさんの色が最後にふと消え去ってしまう感じがどうにも納得できなかった。
だから初回の課題を見てそれまでのワクワクが小さくなっていった。
その下の文章を読むまでは。

大人になったとき、ふと込められた彼の切望に近いメッセージに気づくかもしれません。

――切望?

彼の作品にそんな強い想いが含まれていただろうか。
『注文の多い料理店』を脳内で再生してみてもその欠片は見当たらない。
扉をくぐるたび料理へと近づき、最後に猫の目が光るストーリーの中で、作者の身を削るような想いは存在しただろうか。

私は彼の想いを一度も読み取ったことがなかった。
先生の言う「堪え切れない悲しみと怒りと絶望」を感じたことがなかった。
続く文章には「未来への賭け」という言葉があり、物語のような文体も相まって、小学校で言われるような「いのちの大切さ」なんて言葉まで光って見える。
読み取れなかった悔しさよりも興味が先行して、すぐさま青空文庫に飛んだ。

そうして完成した課題の導入が、今回の冒頭二行である。
『注文の多い料理店』を再読すると、以前感じた特有の不気味さの理由が溶けてゆき、「苦手」は過去形に変わった。

そのきっかけとなる物語の一部を引用する。

それに、あんまり山が物凄いので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。

これは最後、猫に食べられそうになってぐしゃぐしゃに泣き出す猟師二人の会話である。

以前は徐々に怪しくなる雲行きと猫に怯え、二人が助かったことに安堵して本を閉じた。
しかし今はこの文章が「敢えて挿入されている」ように感じられて、どうにも引っ掛かる。

自分の犬をモノとして扱って、これから自分に起こる災いを疑いもしない二人。
彼らはまさか自分が食べられる側、殺される側に回るなんて微塵も思っていない。
そんな二人が襲われる。
物語の裏に何かある。そう確信した文章だった。


良ければこのあたりで青空文庫へ向かってほしい。
もし私と同じ、彼が苦手な方がいらしたら、見方が変わる感覚を共有したい。


この話を「物語」として読んだなら、きっと猟師に自分を重ねるだろう。
けれど猟師を「遊びで動物を殺す者」として読んだなら、彼らに「嫌な人間」とか「自業自得」なんて感想を持つのではないか。

殺す側が殺される側に回る。そのときどんな価値観の変化があるか。

宮澤賢治は先ほどの文章を挿入して、当たり前に猟師側――つまり「殺す側」だと認識する、私たちの意識を指摘した。
可愛がる動物と、食べる動物。そこに何の違いがあるのだろう。
生きるためには殺さねばならない。
命でできたこの世界には、誰かが負わねばならない重荷がある。
知らないふりをして、さも人間が最も偉いような顔をしていることに彼は怒っていた。
そこに目を向けない人間はなんて弱いのだろう。そんな声が聞こえた。

元に戻らない二人の顔に、彼の想いの強さが見える。
命は等しく対等でなければならない。
昔感じた不気味さは、この呪いのような願いが隠されていたからだと知った。

彼は決して道徳の教科書のように「いのちを大切にしなさい」とは言わなかった。
物語の中にひっそりと、見つからないように、絶望と怒りの叫びを織り交ぜた。
そうして彼は、読み手に「物語」という手段を選ばせる。
織り込まれた叫びはそれを自覚させることなく、読み終えた後小さな棘となって私たちの中に残る。
私がそうであったように、心に残る不気味な何かが時を経て解けていく。
時間を越えて、それが呪いであったことを知る。
それは遅効性の毒のようで、なんと恐ろしい切望だろうか。

彼の作品は童話であり童話ではなかった。
童話の形をしているだけの、明らかに大人、そして社会へと向けた静かな反逆であった。

叶うなら殺す側に回りたくはない。
自分がそちらに回るなら消えてしまいたい。
『よだかの星』を経て、彼のそんな声が聞こえてきた。

敢えて「物語」という手段を取ったこと。そこに「ことば」の底知れない力を見た。
彼の選んだ手段に触れてみたいと思った。
彼と出会って半年で「ことば」に囚われ、今がある。
苦手な作家を見つめ直したら私の生き方が変わってしまった。

ここに書いたことを既に知っていた方もいるだろう。
けれどこの記事が、誰かひとりの価値観を変えるきっかけになったら良いなと思う。
そうして共に彼の理想を考えたい。

結局私は、彼がどんな世界を望んだのかわからない。
答えの出せない弱い私は今日も殺す側に立つ。

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