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2025に杭を打つ

2013年 フジロック 

10年間で何百回も聴いた。

何度も聴いて、今の今まで、

2013年 富士六景

だと思っていた。富嶽三十六景みたいな、六色の顔を持った富士のことを表現していると思っていた。
でも違った。

morohaが解散した。

富士は六個の顔ではないのかもしれない。
そのことに、10年越しに気付くことになった。

厳密には約9年。しゃべくり007で東出さんがmorohaを紹介した回が2016年3月。そこから虜になって約9年。

虜と言ってもあまり聴かない時期も長くあった。morohaのうたは、聴くのに勇気がいる。時には背中を押してくれるが、時には頬を引っぱたかれる。自分がしゃんとしてないと、地に足つけて踏ん張っていないと、彼らの応援はダメージが大きすぎて、立っていられなくなる。

弱っているときに、寄り添ってくれる言葉も、傷をなめてくれるのではなく、立って前を向けと言ってくる。

その言葉を受け止められない自分が怖かった。
全身で受け取れと、全力で投げかけてくるものを、全身で躱しきるような人間であることを自覚するのが怖くて、だから、どんなに強いボールも怖がらずに胸トラップできるほど、「今を生きている」と胸を張っていられる時にしか聴けなかった。

大学受験、morohaに支えられた。
一人暮らしを始めた頃、morohaや不可思議/wonderboyに支えられた。

とにかく生きる事に懸命だった時は、彼らの声を聴いて、生きよう、生きなければと思った。

昨年12月、ふとmorohaを聴くことが増え、何度も口ずさんだ。
そして、12月21日、
morohaが解散した。

正式には活動休止と発表された。

でも、アフロさんの言葉を聞く限り、これは解散で、
もう一度二人で始めるのだとしたら、それは活動再開ではなく再結成なんだ
という風に聞こえた。風とは言ったが、実際にそのまま言っていたのかもしれないし、全く違うことを言っていたかもしれない。
僕にはそう聞こえた。そして、彼らは、僕らがそれぞれどう聞こえようと、聞こえた言葉をそのまま受け入れてくれるような気がするんだ。

2025年、僕は新たな一歩を踏み出す。

転職し、働く環境は大きく変わる。
そして、仕事を含めたプライベート全体で様々なことが大きく変わる。
気がする。

僕は、ずっと同じ場所で同じことをし続けるのが苦手だと思っていた。
でも、多分違う。
見えない未来を見ることが好き
なんだと思う。

だから、一歩先の未来が予想できないくらい、一歩ずつ歩幅を大きくしていきたい。

最近流行りの「親ガチャ」という言葉が嫌いだ。
実際、親によって決まることは沢山あり、自分の命の主導権を握れないまま奪われることもある。
生まれながらにして、贅沢な暮らしができ、常に何かに守られながら、膝小僧に傷を作ったことさえない人もいるのかもしれない。
そして誰においても、その人格の基を形成したのは家庭という社会と言えるのかもしれない。

そういう意味でも親ガチャという言葉を全否定することはできないように思う。
あえて親ガチャを使って表現するならば、自分は当たり側の人間だから嫌悪感を感じるのかもしれない。
だから、それを使う人のことを無闇に責めることはできないけれど、でも、やっぱりこの言葉は好きにはなれない。
自分がなぜこの言葉を嫌うのか。嫌いなら自分が使わなければ問題ないのに、人が使ってると辛くなるのはなぜだろうか。
その理由が、わかった気がする。

自分が生きる意味を肯定したい

だからかもしれない。
その言葉が自分の中で輪郭を成してしまった時、人生は生まれた瞬間に決まっているということを認める事になりそうで、怖いんだ。

決まったシナリオに沿って、流れる時間に浮かんでいるだけだと思うのが、これまでの自分の意思やこれからの時間が無駄になるような気がして。

僕は生きる事に懸命になりたいのかもしれない。

今年のテーマは仕事と筋トレ。
挙げたらきりがないくらい、本当はもっとあるが、自分の中でわかりやすくテーマとして持ちたいのがこの2つ。

どちらにおいても、止まる時間がないくらい、もがき動き続ける1年に、いや、一生にしたい。
もがいた結果、沼に引き込まれても良い。
そうなった時は引き上げてくれる仲間がいる。

次の職場のことを、まだ外側からしか見ていないから深くは知らないけれど、「人」「喜び」「仕事」これらをまとめて背負って、「幸せ」に全員で立ち向かっている気がする。
事業は、背負うための肉体を鍛え、風呂敷を大きくするための手段のように感じた。

自分がやりたいこともそうだが、もっともそのような組織や環境に魅力を感じ、縁を頂いた。このことに感謝をしながら、自分も自分という形を保ちながら組織の一員となっていきたい。

次に筋トレ。
僕が筋トレをしているのには、明確な目的がある。目標じゃない。目的。
それは、
Big3の合計が360kgを超えること。
もう一度言うが、これが僕が今トレーニングを続ける目的だ。

360という値については、人にどう見られようと関係ない。誰かにとっては大きく誰かにとっては小さいものでもあるだろうが、それはどうでも良い。
一昔前の僕にとっては届かない壁だったが、届きそうな壁に見えてきた。
そんなこともどうでも良い。
ただ、動かない壁として存在している。

僕が成長したら、新たな壁にぶち当たることがあるかもしれない。でも、今目の前にあるのは360の壁で、それを超えたときに壁が見えたとしたら、それはまた別の壁だ。
越えるかどうか、越えるのならばどう越えるのか。それはその時考える。

もう一度言うが、これは目標ではなく目的だ。
筋トレの目的が筋トレというのは変に聞こえるかもしれない、自分でも違和感を感じるが、そうなんだからしょうがない。
手段と目的が同じ層の上に存在することもあり得ると思う。

もしかしたら、生きるっていうのもそうなのかもしれない。

僕は、悩みや苦しみ、ストレスを乗り越えるために生き、生きるためにそれらのストレスを感じているような気がする。
ストレスは重りだ。
ダンベルであり、バーベル。そして、自分の心でもある。

持ち上げるために、それらを自分自身に課している。

生きる目的は生きる事だ。

って言ってみたはいいけど、

生きる目的が死ぬこと

である人もいるかもしれない。

でも、

死ぬ目的が生きること

にはならない。

とも言えないか。

人が自分で死を選ぶ時、それは、自分の生き方を自分で決めたいからなのかもしれない。
自分の生の終わりを、自分の手で。
自分が自分でなくなるのが怖いから、自分が自分であるうちに。

人それぞれ、いろんな思いがあるだろうし、それを概してこうだと言うことは間違っているのかもしれないが、でも、それら全てを他人が間違ってると否定するべきではないような気もする。

当人たちからしたら、それが正しいと肯定されたいわけではないかもしれない。
自分以外の人間にとってはどう思われてもいいかもしれない。
でも、1人の人間にとって、この世に生を繋ぎ止める杭となるものは他との繋がりしかないように思う。

僕は、死を、この世界からいなくなることだと思っている。
でも、それは死を客観的に、世界の上に立つものから見てるからであって、自分がその立場になった時、死の捉え方が変わる気がする。

死後の自分にも意識があるような気がして、その前提で考えると、死とは、自分と世界を切り離すもののように思える。
言葉にすると、ほとんど同じで違いがわからない。これは単純に僕の論理的思考の欠如か表現力不足。

両者の違いは、前者はこの世が存在を続けるものとして根底にあり、後者は自分がその存在となることだ。

人が死を選ぶとき、その自分でさえも自分でなくなりそうな、首の皮一枚さえも自分のものではないように感じているのかもしれない。

そんな人を、孤独にしないような世界が、人と人、一人と世界がぶっといケーブルで懸垂構造によって繋がる世界が、できるといいな。
※年末に大鳴門橋を渡ってきました。

2025の1年間が、僕にとって切っても切れないような、僕が生きた証であり、僕が生きる礎となる1年になるよう、今ここに、杭を打って、旗を立てる。

そう

2025に杭(91)を打って、2116。

僕はこれを、虹色と呼ぼう。

誰が何と言おうと。

日出づる富士のこちら側は暗い

すけお

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