心太#3
【園田誠】
昭和53年生まれ、42歳、公務員。
私の人生は平凡で、人に自慢できるものや経験はあまりなかった。
でも、社会に出て、淡々と仕事を繰り返す日々の中で、運よく世界で一番美しいものに出会い、また一つ一番を授かり、それからは二つの一番大切なものに囲まれ、幸せな生活を送っていた。
もし、私自身の伝記を書くとしたら、25歳までは1ページくらいに収まってしまうかもしれない。もしそうだと悲しいからやらないが。
でも、妻と出会ってからは世界に色が付き、みおが生まれてからは虹色に輝いていた。
もし、伝記を書くなら、2ページ目からは色のあるペンを使わなければならない。それから、100ページ以降は虹色のペンが必要になる。
たまに、挿絵だったり、飛び出すページも用いるだろう。
それくらい、二人と出会えたことは私にとっては大きくて、幸せだった。
娘のみおはいつの間にか大きくなり、もう中学2年生になっていた。いつの間にか、とはいってもみおが生まれてからの伝記は5000ページ以上になるのだが。伝記ってそういうものじゃないって、どこかの誰かに叱られるかもしれないが、私にとってはここに書いてあることすべてが一番大事な思い出なのだからしょうがない。生まれたときも、初めて指を握ってくれたときも、泣いた時も、抱き着いてくれた時も、転んだ時も、笑ったときも、怒って泣いたときだって。すべて思い出。
でも、今考えるとこの12年間は長いようで一瞬だったなぁ。
これからもたくさん泣いて笑って、たくさん恋をして、いつまでも周りの人々に幸せ与え続けていくんだろう。と、疑わなかった。
みおはクラスでも人気者らしく、友達もたくさんいるようだった。
よく友達の家に遊びに行き、友達がうちに遊びに来ることも多かった。
好きな子はいるんだろうか。彼氏はまだいないよな。
おそらく年ごろの娘を持つ全父親は、娘の恋愛沙汰が気になり、仕事でさえ本当は手についていない。用を足す時ですら、気になり始めることがある。
そういう時はたいてい用を足した後に手についている。実は。
先週から、みおの中学は夏休みに入りみおは毎日部活やら遊びやらで楽しそうだった。
私の帰りが遅く、一人で夕飯を食べていても、楽しそうにその日の話をしてくれた。だから、毎日寝る前にはもう仕事の疲れはなくなっていた。
私も、もうすぐお盆休みに入る。
みおがバスケを始めてからは、普段の休日はみおが部活の試合や練習で忙しく、家族でどこか遠出したり、一緒に映画を観に行ったりしてあげられなかった。
正しくは、「してあげる」ではなく、「してもらう」なんだが。
お盆はみおも部活が休みらしい。さらに、お盆はみおも遊ぶ予定がないという。せっかくの休みで友達とたくさん遊びたいだろうに...。お泊りとか、遊園地とか、本当は誘われてるのではないか。私も休みだから、気を使って家族と過ごす時間を作るために誘いを断っているのだろう。親ながら、わが子の出来の良さに感動した。
でも、もし本当に私たちのために誘いを断っているのでは良くない。私と妻にとっても一番の幸せはみおが楽しんでいて、笑っていることだ。一人娘の楽しみを奪ってまで、自分の幸せを選べるわけがない。というか、そんなことはできない。矛盾している。
だから、少し勇気を振り絞り、みおに直接聞こうと思った。
「みお、今度の休みも友達から誘われてたら行っていいんだぞ。」
「みんなもおばあちゃんち行ったり、旅行行ったりで忙しいんだって!13日にみんなとバーベキューあるからそこで遊べるし!」
13日はみおたち女子バスケットボール部の部員と保護者でバーベキューを行う予定がある。私と妻も仕事が休みのためついていくことになっていた。
お盆の後半は家族3人で妻の実家がある千葉へ行く予定だ。
みおには言ってないが、実家へ行く一日前に出発し、千葉のテーマパークへ家族で行く予定を妻と一緒に立てていた。みおにはサプライズだ。
サプライズとはわかっていても、みおの喜ぶ顔が速く見たくて、何度も言いそうになった。その度に妻の鋭い視線が飛んできて喉に刺さり、耐えてきた。
私はその日が楽しみで今も眠れそうにない。明日はバスケ部バーベキュー、BBBBQだ。眠れないからこんなことばかり考えている。
8月13日、私たち家族はBBBBQをやる予定の川へ車で向かい、ほかの家族より一足先に到着した。
先にいて準備をしてくださっていた保護者や顧問に挨拶をして、BBBBQの火の手が上がるのを待った。
少し懸念していたが、父親がくる家庭は多くなく、当然私も焼く係を担当するようになった。
BBBBQが始まり、私は肉を焼いたり、タオルで汗を拭いたり、肉を焼いたり、タオルで汗を拭いたりしている間、みおは友達と肉を食べながら友達と楽しそうに話していた。
妻はママ友と楽しそうに話しているが、楽しそうに話すママたちの会話は私たち夫には怖くてとても聞きたいとは思はない。
もしこちらを見ていたらと思うとそちらに目を向けることもできず、一緒に肉を焼くパパさんたちと話をしながら、肉とみおを交互に眺めていた。
気温もピークを迎え、私たち「肉焼き係」は休憩をはさみながら順番にやることにした。
こまめに水分を取り、肉をほおばり、最初からこのやり方がよかったんじゃないかとは思ったが、思い返すとスタート直後は需要が多すぎて供給はぎりぎりで持ちこたえていたくらいだ。
この体制になるのは、子供たちが食を終え、川で遊びだした今がベストだった。提案したパパにノーベル賞を与えたい。
とはいえ、たまに子供たちが一気に押し寄せるものだから、混雑時に「焼く」シフトが入っているとひとたまりもない。
と考えていたところ、私にもその時が来てしまった。
焼きためておいた肉や野菜を配りながら、みおのお皿には一番出来のいい肉や野菜をこっそり載せようと思ったのだが、みおはそこのグループにはいなかった。
配るのでいっぱいいっぱいで、みおがどこにいるのか、視界にとらえることはできなかったが、お皿をもって押し寄せてきた子たちによると、他のメンバーは川の上流のほうへ遊びに行っているらしい。
彼女らもお皿を置いて、その、みおがいるであろう方へ向かっていった。
「危ないから気をつけるんだぞ。」
と、近くにいた顧問が注意していたが、子供たちは気のない返事をするばかりだった。
それから少し経って休憩に入ろうとしたとき、一人の子が大声を出しながら川のほうからこちらへ向かって走ってきた。
そこから先はあまり覚えていない。
何が起こっているのかわからないまま、無我夢中になっていた。
あの日から、今日まで、私は何も手につかなくなっていた。仕事も全く行っていない。妻は私のためにご飯を作ったりしてくれているが、その度にお礼を一言言うので精いっぱいだ。
あの日、8月13日、みおは死んだ。
友達と川で遊んでいたところ、何かに足を取られ、転んで頭をぶつけていたらしい。しかしその瞬間を見ている子はおらず、そのまま流されていったのだろうとのことだった。
捜索の結果、2日後にみおは見つかった。
私の伝記は、後半はほとんど空白のままページ番号のみ振られていくことになった。
あれからとてつもなく長くも短い時間を抜け殻のまま過ごし、季節も変わろうとしていた。
葬儀や通夜があったため、周りはバタバタしていたが、私はどこへ行くにも抜け殻のまま過ごしていた。
その長い時間を過ごし、世界は9月に入ったとき、妻から、みおに会いうために川に行こうとの誘いがあった。
連れられるまま、事故のあった川へ行き、花束を持っていこうと二人で一緒に歩いていたところ、川の方からこちらへ向かってくる一人の少年とすれ違った。
目を真っ赤にはらしたその少年は、私たちが通り過ぎるとき、頭を深々と下げ、何か言っていた。
妻とともに、その少年に会釈をしてたくさんの花束やジュースの並ぶ場所へ行き、そこで座り込み、みおに話しかけた。何度も何度も心の中で謝りながら、あの時の自分を呪った。のんきに肉なんか食べて...。
妻は私の隣で静かに、これまで見たことのないほど涙を流し、彼女の中でみおと話をしているようだった。
私も、見えないみおに向かって「ごめん、ごめん」と口に出して謝ることしかできなかった。
妻は、先にみおとの話を終えたようで、一度私の背中をポンと触り
「先に行ってるね」と合図をして車のほうへ戻っていった。
私は何度もみおに謝り続けて、もっと一緒にいたかった。と伝えると、ふと、みおの声が風に乗って聞こえてきた。
「お父さん、ごめんなさい。こんな早くに離れるなんて、私親不孝だね。もっと一緒にいたかったなあ。
でも、もうそれもできないみたい。だから、お父さんももうくよくよしないで!私がいなくてもお父さんの隣にはいつもお母さんがいるから。
隣にいる人を私の一番大切な人を、これからも幸せにしてあげてください。私も遠くからずっとお母さんとお父さんのこと見てるから。
今までありがとう!大好きだよ。」
ずっとこのまま、みおと話しが出来たら、なんて願ったが、風に乗って消えていってしまった。
私は何て愚かだったのだろう。一番大切なもう一人の家族を一人きりにしていたなんて。
私の最後の言葉はみおに届いただろうか。
お父さん、必ずお母さんを幸せにするからな。
チケットをはさんだ花束を置き、私もその場を離れ車へ歩を進めた。
あの時の、少年の言葉。
あの時の周りに壁を作っていた私にはうまく聞き取ることができなかったが、今思い返してみると、ノイズが消え、だんだんはっきり聞こえてきた。
あの少年は誰だったんだろう。おそらく、私たちに向かって、
「ごめんなさい」
といったあの少年。