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読書「緋色の研究」コナン・ドイル

生まれて初めて読んだ推理小説は、やはり名探偵シャーロック・ホームズものだったでしょう。
小学生当時は、ポプラ社から児童書として、名探偵ホームズのシリーズが刊行されていました。
初めに手にしたのが、どの一冊かは思い出せませんが、表紙のビジュアルがかすかに記憶にあるので、おそらく「四つの署名」「まだらの紐」「赤毛連盟」「バスカーヴィルの犬」のどれかだったと思います。
いずれにしても、順不同ではありましたが、このシリーズはすべて読破。
それから、モーリス・ルブランの怪盗ルパン・シリーズに移行し、ミステリー沼にハマってからは、江戸川乱歩や横溝正史の推理小説を片っ端から読み漁り、いつかは自分でミステリー小説を書いてみたいという妄想はずっと持ち続けていました。

もちろん、本作がシャーロック・ホームズの記念すべき第一作目であることは、知識としては知っていました。
しかし、読んだ記憶がないのは、おそらく本作がポプラ社のシリーズにはなかったからだと思っています。
ホームズの記念すべきデビュー作であるにもかかわらず、本作はどこか番外編みたいなポジションだったのでしょう。
しかし、その理由は、今回本作を読んでみて、理解出来た気がしました。

アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』は、1886年に執筆され、翌1887年に発表されました。
この時期のイギリスは、ヴィクトリア朝後期にあたり、大英帝国が繁栄しつつもその影が見え始めた時代でした。
この時期、産業革命による都市化が進み、ロンドンには多くの移民や労働者が集まりました。
その一方で、貧困や犯罪も増加し、社会問題となっていたわけです。
作中で重要な背景となる第二次アフガニスタン戦争は、イギリスとロシアとの勢力争い「グレート・ゲーム」の一環として行われました。
この戦争で負傷したジョン・H・ワトソン博士がロンドンに戻り、ホームズと出会うという設定は、この時代特有の軍事的背景を反映しています。
クラシックを読む時には、書かれた国の当時の時代背景を把握しておくと物語に入り込みやすくなります。

作者のドイルはもともと医師であり、1882年にイギリス南部ポーツマスで開業しています。
しかし、患者数が少なかったので、空いた時間を利用して執筆活動を始めることとなります。
彼は短編小説を雑誌に投稿するなどして文筆家としてのキャリアを模索していました。
ドイルは27歳の時、この作品をわずか3週間で書き上げました。
彼はこの作品をいくつかの出版社に持ち込みましたが、何度も拒否されることになります。
最終的に、Ward, Lock & Co.がこの作品を受け入れ、1887年に『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載。
ただし、ドイルはこの契約でわずか25ポンド(現在の価値で約3,371ポンド)しか受け取らず、その後の印税収入を得る権利を放棄する形となりました。
シャーロック・ホームズのデビュー作は、ドイルにとっても、かなりほろ苦いものだったようです。

実際シャーロック・ホームズが世に認められたのは、それから3年後に「四つの署名」が売れてからです。
出版社からの依頼があってドイルが執筆を再開したものでしたが、この間ドイルはホームズ・シリーズを書いていません。
しかしこの「四つの署名」がヒットして以後のホームズは、あっという間にミステリー界のトップスターに躍り出ます。
そして人気に火がついてから、本作は再び、シャーロック・ホームズのデビュー作として見直されることになります。

しかし、本作は2作目以降のホームズ・シリーズと比べると少々異色でした。
それは、物語の構成です。
本作の第一部では犯行と捜査の経緯が詳細に語られるのですが、第二部で語られるのは犯行の動機。
なんと二部ではシャーロック・ホームズがまったく登場しないんですね。
第二部は、完全に犯人からの目線で語られることになります。

第一部。

アフガニスタン戦争で負った傷から回復中のイギリス陸軍軍医ジョン・ワトソン博士は、共通の知人であるスタンフォードを通じてシャーロック・ホームズと出会います。
二人はベーカー街221Bのアパートをシェアすることにすることになります。
ワトソンはすぐにホームズの職業が「顧問探偵」であることを知り、彼の風変わりな方法と驚くべき推理に興味をそそられるうちに事件が発生します。
彼らが一緒に担当する最初の事件は、ロンドンの廃屋で遺体が発見されたエノク・ドレッバーの謎の殺人事件です。
壁には「RACHE」(ドイツ語で「復讐」)という言葉が血で書かれ、現場では女性の結婚指輪が発見されました。ホームズは科学的手法と鋭い観察力を駆使して、容姿や動機など、殺人犯の詳細を推理します。
そして、最終的にホームズは、真犯人をアパートにおびき出し格闘の末確保。
ここまでは、ホームズの活躍がバッチリ描かれます。

そして第二部です。

舞台はロンドンからいきなりアメリカの大平原に飛びます。
そのあまりのジャンプ具合に、しばらくは、別の小説が始まったような錯覚に陥ったほどです。
物語は、数十年前にユタ州で起こった出来事を第三者の視点から淡々と語られていきます。
ジョン・フェリアーと養女のルーシーは、大平原の中で死の彷徨をし、瀕死のところを、モルモン教徒の一団に救出されます。
生きるためにモルモン教の教えを受け入れたジョンが、後にコミュニティ内で抑圧に直面していく経緯が明らかにされます。
ルーシーをモルモン教徒と結婚させたくないジョンは、婚約者と共にコミュニティを脱出。
しかし、モルモン教徒たちは、彼らを執拗に追い詰め、ジョンは殺され、ルーシーは教徒の手によって連れ戻されてしまいます。
自分の意志に反してエノク・ドレッバーとの結婚を強いられだルーシーは、結婚後まもなく失意の中死亡。
そして、復讐を誓ったルーシーの婚約者は・・・

ドイルが第二部のバックストーリーで丁寧に描いたモルモン教は、宗教的抑圧と偽善を誇張して描写していると批判されていますが、これには、当時のイギリス社会のモルモン教に対する強烈な偏見があったことは事実のようです。
小説の中では、当たり前のようにモルモン教徒コミュニティの一夫多妻制が描かれていますが、版を重ねた現在の文庫の冒頭では、モルモン教徒の一夫多妻制は1890年代にはなくなっていることを説明しています。
また、ドイル自身も、後年になって、モルモン教に対して行き過ぎた描写があったことを正式に謝罪しています。

というわけで、やはり違和感があったのが、この第二部でしたね。
犯人目線による動機のパートがしっかりと描かれれば、このミステリーに人間ドラマとしての厚みが加わるとドイルは考えたのでしょう。
確かに、第二部はたっぷり短編小説一話分くらいのボリュームがありましたので、気がつけば犯人の心情にはたっぷりと寄り添うことが出来ました。
しかし、ホームズものとして、このパートが果たして必要だったかと考えると、ややクエスチョンマークです。
逮捕後の犯人の独白を、ワトソン博士が聞いたという形でサラリと書かれていても、ホームズものとして、それほど違和感はなかったように思われます。
とにかく、物語の途中で、語り手がワトスン博士以外の視線になるという展開は、僕が読んだものの中では本作のみ。
そしてこのパートには、ホームズもワトソンも登場しないわけです。
個人的には、連続ドラマの中で、主人公が途中で入れ替わったような違和感でしたね。
但し、異なる視線で語られていくミステリーの形式というのは、現代においては、映画や小説の中では、当たり前のドラマツルギーになっています。
物語の進行によっては、その方がより効果的である場合もあるでしょう。

しかし、これがホームズ・シリーズのように、大人気シリーズになってしまうと、決まったテンプレートはそう簡単には。
どれだけマンネリと言われようと「水戸黄門」や「大岡越前」は、あのフォーマットを崩せないのと同じです。
コロンボ刑事が、スリーピースのスーツを着て出てきたら、やはりファンは許さないでしょう。
これが大ヒットシリーズの、痛しかゆし。
その意味では、名探偵ホームズが大ヒットシリーズになる以前に書かれてしまった本作が、通常のシリーズとは、やや趣が違う作品であったことは否めないというわけでないというわけです。

しかし、ホームズ・シリーズとしては多少違和感があっても、本作を1冊のミステリー小説として読めば、十分に楽しめることだけは申し上げておきます。
それにホームズとワトスン博士の出会いと、コンビ誕生の経緯を知れるのは、古今東西のシャーロキアンたちにとっては大きな魅力であるのは間違のないところ。
本作は、ホームズ・シリーズの、ちょっと毛色の変わった番外編として楽しむべきかもしれません。

ホームズとワトソンがはじめて出会うシーンで、ホームズは、ワトソンがアフガニスタン戦線から帰ってきたばかりであることをズバリと言い当てます。
ホームズが観察眼の鋭さを披露するシーンは、他の作品でもたびたび登場しますが、その最初の相手がワトソン博士であったのは思わずニヤリ。
ちなみに、シャーロック・ホームズのキャラクター造形には、モデルが存在します。
ホームズのモデルとされる人物は、アーサー・コナン・ドイルの医学部時代の恩師であるスコットランドの外科医、ジョセフ・ベル博士です。
ジョセフ・ベルはエディンバラ大学で教鞭をとり、エディンバラ王立病院で医師として働いていました。
彼は観察力を重視し、患者の外見や態度から職業や生活環境、病歴などを言い当てる能力に優れていました。

ベル自身も、自分がホームズのモデルであることをおおいに認識しており、それを誇りに思っていたとされています。
また、作者ドイル自身も実際にスコットランド警察の捜査にも協力しており、その経験がホームズの探偵としてのリアリティを高める要素となっているのは間違いのないところ。

さらに、ホームズのキャラクター造形には、エドガー・アラン・ポーが創造した架空の探偵C・オーギュスト・デュパンからの影響も指摘されています。
デュパンは推理小説の先駆者的存在であり、その分析的思考がホームズに影響を与えたと考えられています。
本作の中にも、デュパンに言及するくだりがありましたね。

初登場以来すでに、160年が経過していますが、いまだにシャーロック・ホームズといえば名探偵の代名詞です。
彼が世界中のミステリー・ファンから愛される理由は、なんといってもその知識の偏り方でしょう。
本作には、ワトソン博士が書き出した、ホームズの特異点一覧表が登場します。
それによれば以下の通り。

文学の知識 ゼロ。
哲学の知識 ゼロ。
天文学の知識 ゼロ。
政治の知識 微量。
植物学の知識 麻薬、毒物の知識は詳しいが、園芸の知識はゼロ。
地質学の知識 一見して各種の土壌を識別。
化学の知識 深淵。
解剖学の知識 精確。
通俗文学の知識 今世紀に起きた凶悪事件の詳細が頭の中でプロファイルされている。
イギリス法律の実用的知識 深い
バイオリンの腕前 なかなか

要するに、探偵業に必要な科学捜査の知識にのみ精通しており、それ以外のことには興味がないというわけです。
いってみれば、探偵業を営んでいなれれば、この人物は人間としてはかなりのポンコツ。
この極端なキャラ設定が、ホームズの魅力になっていることは間違いのないところ。
彼がもし人間としてスキのないスーパーマンであったら、こうは愛されることはなかったでしょう。
時にはワトソン博士に対して辛辣なことをいい、自分の能力に対して高慢な態度はとっても、彼が憎めないのは、この人物に私利私欲がなく、犯罪を暴くことをとことん楽しんでいる姿勢にあると思われます。

ホームズ以降、世に登場した名探偵たちは、少なからず彼に影響されているのは間違いのないところ。
彼のキャラになにかを足したり、あるいは引いたりして、独自のキャラ設定をしているように思えます。
いずれにしても、シャーロキアンを自認するミステリー・ファンであれば、本作は間違いなく読んでおくべき一冊です。

「未来少年コナン」が大好きだというアニメ・ファンの方はたくさんいるかと思いますが、是非とも本作を読んで、そのルーツをしっかりと確認しておいてください。



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