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いつかの主人公はいつかの脇役/『昨夜のカレー、明日のパン』感想

「解説」にある、

「小説」っていうのを見よう見まねで「こんな感じかしらん」と思って書いた


という言葉がこの本をよく表している。
小説家じゃない人が書いた小説という感じ。
それはべつに褒めても貶してもいなくて、
ただただ率直な感想だった。

読んでも読まなくても、私の人生には影響を及ぼさない本。
そういう本に巡り合うことはわりかしあって、たぶんこの本もそれに含まれる。
そう言いながらもページに折り目をいくつかつけた。
それは、なにか新しい学びを得たというものではなくて、
なにかを思い出すきっかけになった言葉たちだ。
だからこの本は私の考えかたとか人生に影響を及ぼすことはないけど、
自分の感情や思いを振り返るきっかけになった。

心をぐっさり突き刺すような、
心を激しく揺り動かすようなものではないけれど、
自分のなかのなにかを思い返すような、そんな小説なんだろう。
自分自身のどこかをそっと撫でてくれるような小説だと思った。

折り目をつけた言葉たち

そうなのだ。私の言葉など、ゴミに等しい。何を言ったところで、何かを変えることなど到底無理なのだから。

自分の言葉なんて無力だ。
自分の言葉だけでなく他人の言葉だって無力だ。
たとえ誰かの言葉に心が動かされても、時が経てばすっかり忘れている。
自分の言葉で何かや誰かを変えることはできない。
他人の言葉で自分は変わらない。
それに気がついたとき、空虚を感じる。

でも、自分の言葉で自分を変えることだけはできるんじゃないか。
座右の銘とかモットーとかに、人の言葉を引用するからダメなんだ。うまく作用しない。
自分の体内から生み出された言葉じゃないと、体に、精神に染みつかない。

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そうではないのだ。「悲しい」とか「つらい」とか、そんなありきたりのコトバしか頭に浮かばない。タカラは、ぴったりのコトバを何とか探そうとしたが、そんなものが、この世にあるとは到底思えなかった。

平日の夜、帰路の車内あるいは家に一人きりでいると、
ふとある感情が湧きおこる。
気分がズンとして、その日の自分の言動を省みてはもやもやする。
閉鎖された、自分しかいない空間の空気を吸う。
「悲しい」とつぶやくとより一層悲しくなる。
適した言葉がないから「悲しい」という言葉を使うけれど、
この感情はきっと「悲しみ」ではない。
じゃあなんだと考えるが、
たぶんこの感情をあらわす言葉は存在していなくて、
たぶんこの感情は言葉であらわす必要性もない。
いろんな不安とか後悔とか自己顕示とか、
他人からのささいな一言や表情だとかがぐるぐると渦巻いているような、
混沌としたものを、言葉という一言で表せないだろうし、表してほしくない。

そこに渦巻いているものは日々異なっている。
だけどその結果として生まれる感情は毎日似ている。

タカラが抱いた感情と、
私のこの感情は同じものではないかもしれないけれど、
名前のない感情にとらわれていることは変わりない。
小説の登場人物ですら、とらわれている「名前のない感情」。
世界中にもとらわれている人がいるのだろう。
たとえ表には出なくても。
みんなが、名前のない感情にとらわれている自分を表に出してくれれば、
私はひどく安心できるのに。
押し寄せてくる名前のない感情に、私は時折押しつぶされそうになっている。

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「目の前から消えちゃったんでしょ? だったら死んだのと同じですよ」


もう会えない人、会わないだろう人はごまんといる。
せわしない日常のなかで、その人の存在を思い出すことはまるでない。
その人たちはある場所で今も息をしているのだろうけど、それは私には関係のないことで、
その人たちがどんなことを考えてどんな暮らしをしているのか知る術もないし知ろうとも思わない。

ふと夢にそんな人たちが出てくる。その真意は分からないけれど、夢を反芻してやっとその人の存在を思い出す。
そこで、その人たちは生き返るのかもしれないけれど、数時間後にはまた死んでゆく。

永遠に生かしておきたい人がいるのなら、
自分の暮らしのなかから切り離さないようにしておく。

私だって、誰かにとっては死んだ存在なんだろうなあ。
私にとって永遠に生かしておきたい人に、私は殺されているかもしれない。
でも、それはそれで仕方のないこと。
虚勢でも諦念でもなく、純粋にそう思う。

誰に生かされようと殺されようと
私は私だし、
誰を生かそうと殺そうと
誰かは誰かのままだ。

こういう、ひとつまえのエピソードに少しだけ顔を出していた人物が次のエピソードの主人公になるような短編集って、
自分の大切な大切な人生だって、誰かにとっては通過点でしかない
っていうことを思い知らされる。
あるエピソードでは、主人公の頭のなかでどんなにいろんな感情が巡っていようが、どんな葛藤をしていようが、
ほかのエピソードでは脇役となり、主人公のそばを素っ気なく通りすぎていくだけ。

そういえば、原田マハの『独立記念日』でも
そういう感想を抱いた。

小説に限った話ではなくて、
現実もそうなんだろうなあ。


『昨夜のカレー、明日のパン』木皿泉
河出文庫

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