自分を貫いた行動の責任をとりたい/映画「エリン・ブロコビッチ」感想
シングルマザーの社会進出の難しさみたいなのを描いた作品なのかな~と思っていたら、それ以上のものが描かれていた。
最近いろいろと他人の些細な言葉に心が揺らいでしまっていたけれど、なんかもう、どうでもよくなった。
もう私は他人の言葉になんて揺らがなくて済むような気がする。
この映画を見終わって、そう感じた。
他人になんと言われようと、
自分を信じて、自分を突きとおして、自分のやるべきことをちゃんとやっていればいいんだ。
他人の言葉によって揺らいだ自分がとった行動も、
自分を突きとおして自分を信じてとった行動も、
責任をとるのは自分なんだから。
だったら後者の行動のほうが、たとえ失敗したとしても受け止められる。
ちゃんと納得して責任をとることができる。
そのときの自分が、これが最適解だと思って行動したのだから。
どんなに私の心を揺らがせた人だって私の行動の責任をとってくれないんだ。
自分が納得できる自分の行動の責任を私はとりたい。
他人が作り上げた、他人が求める私の行動の責任なんてとりたくない。
着たい服を着ればいい。
職場でエリンの服装を気に食わない女性陣がいようとも、自分がしたい格好をすればいい。
そこに自分の信念がちゃんとあるのだから。
色彩のない堅苦しい服装をした人 ( 私はこの人の名前すら覚えていない ) よりも、結果としてエリンのほうが成果を出している。
「オッパイで勝負よ」とか、
「仕方なくお色気作戦で634人にフェラしまくったの」とか、
もちろんじっさいにはフェラはしていないけど、自分らしい服装だとか、事務的ではない感情のこもった対応だとか、一人ひとりに向き合った姿勢だとか、
そういうエリンの振る舞いが、634人もの人の心に入り込んでいった。
「昇給して」とエリンは堂々と上司に言うことができる。
私にはできない。
今しているこの仕事は、私じゃなくたってできてしまうという意識がどこかしらあるから。
エリンは多くのお金が欲しいわけじゃない。
生活を送るための資金はすでに十分に与えられた。
「問題は金額じゃないわ。私の仕事を認めてよ」
という言葉が表すとおり、給与は自分の仕事に対しての、数字として目に見える評価だから。
ふさわしい量のお金を払うことは、そのものに対して正当な評価を与えること。
それには正当に評価してくれる上司の存在が不可欠。
エドがちゃんと評価を与えてくれる上司でよかった。
この映画の存在を私に教えてくれたのは、ほかでもない私の心を揺らがせた上司だった。
この映画を見ても、あんなふうな言葉を他人にかけてしまうのか。
私が名前すら覚えていない、色彩のない堅苦しい服装をした人に、あの人は私を仕立て上げようとした。
いや、そんなつもりはなかったのかもしれない。
あの人にとってはほんとに些細な言葉だったのだろう。
発したとたんに空気中に舞っていくような言葉だったのだろう。
だけど私にとってその言葉は、どろりとした黒ずんだ液体になって、心にずっとまとわりついていた。
苦しかった。
正直、なんでもないように振る舞っていた。
なんでもないように振る舞いつつ、あの人が気に入らない私を出さないようにしていた。
でも、もういいや。
私は自分を貫いた行動の責任をとりたい。
エリンのように生きていけばいい。
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