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#061その石碑を探せ!落穂ひろい―身近な史跡、文化財の楽しみ方(12)

 以前に「その石碑を探せ!(上)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(9)」および「その石碑を探せ!(下)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(10)」で、地域に残る戦争慰霊碑を探して歩く内容をご紹介しました。今回はその際に時間切れになって探せなかった戦争慰霊碑を、再度探して歩いた際の内容をご紹介したいと思います。

 前回時間切れで探せなかった戦争慰霊碑は三箇所。そのうち二箇所は以前に見た事があり、既に所在は判っているので迷うことはありません。もう一箇所については、忠魂碑調査集編集委員会編『大阪府忠魂碑等調査集』(一九九五年一〇月、大阪護国神社社務所)には「山本町北五丁目 福万寺境内」との記載がありますが、実はその町内にはそんな名前の寺は存在しない。書籍に掲載されている写真を見て察するに、どうやら村墓の中に所在するような感じがします。GoogleMapでその地域の村墓を探してみると、山本町北六丁目七に「福万寺墓地」という村墓がありました。今回はそこから当たってみました。福万寺墓地は、現地について見渡してみると、日露戦争の戦死者の墓があったり、中には明治四年(一八七一)に村によって建てられた、この地域の領主だった「曽我又左衛門永祐」の墓というのもあり、昔からの村の墓地であることが判ります。敷地の北東に目的の慰霊碑がありました。こちらは表には「戦没者之碑」とあり、揮毫は「従三位勲三等田中広太郎」とあり、碑の南側面に「昭和二十二年六月上旬、三野郷村遺族会建之」とあります。田中広太郎は戦前の内務官僚で地方官僚を務めた人物で、昭和二一年(一九四六)~昭和二二年(一九四七)に大阪府知事を務めています。三野郷村は、明治二二年(一八八九)以降に福万寺村を含む近隣の江戸時代の村が合併して出来た行政村ですので、この碑が戦後、地域の遺族会が村墓に設置したものであることが判ります。

福万寺墓地にある「戦没者之碑」

 続いて探しに行ったのが、「山畑二丁目三番地」に所在する「忠魂碑」。こちらは既に見知った碑でしたので、探すのは簡単でした。こちらの石碑は交番の前にあるので、写真撮影をしている間、交番内の警察官に変な目で見られてしまいました。この「忠魂碑」は大正一五年(一九二六)三月に建立されており、揮毫は「陸軍少将仁田原重行」とあります。

大正一五年三月建立の「忠魂碑」

 こちらの石碑の写真を撮影した後に、ふとすぐそばにある小学校に目が行ったところ、面白いものが目につきました。この小学校は明治時代に開校した学校ですが、何年か前に統廃合により廃校になっています。フェンス越しに見た運動場には、二宮金次郎の石像や、大楠公、小楠公の桜井の別れの石像が無造作に転がっています。何度もこの小学校の前は通ったことがありましたが、このような石像があるとは全く知りませんでした。出来れば、このように破却される前に見ておきたかったです。

二宮金次郎の石像の後ろ姿。
大楠公と小楠公。元は向かい合って台座の上に設置されていたと考えられる。

 次に訪ねたのが、『大阪府忠魂碑等調査集』に「南高安三丁目一番地」に所在すると書かれてある忠魂碑です。こちらは掲載されている住所には所在しておらず、住所表記が誤っています。実際の所在は八尾市恩智中町四丁目にある、南高安出張所の敷地内に建立されています。全く町名なども違っているので、ちょっと誤植とは言い難い誤りですが、偶然以前に見たことがあり、掲載されている写真が南高安出張所に設置されているものと酷似しているなというので、GooglMapのストリートビューで探してみて、所在を確認することが出来ました。こちらの忠魂碑は、南高安出張所の敷地の西北側に設置されており、昭和一〇年(一九三五)九月の建立で、石碑表面の揮毫は「陸軍大将 鈴木荘六」とあります。設置、管理の主体は『大阪府忠魂碑等調査集』には「在郷軍人会 南高安分会」、「南高安軍(ママ、郡)恩分会長」と掲載されていますが、石碑の各面を確認しましたが見つけることが出来ませんでした。

南高安出張所の敷地北西角にある「忠魂碑」

 ここまでが、『大阪府忠魂碑等調査集』に掲載されていた戦争慰霊碑ですが、さらに続けて探しに行ったのが、恩智神社の境内にある「日露戦役凱旋紀念碑」です。こちらも以前に見たことがあったもので、戦争に関する石碑として記憶にあり、併せてこちらも調査対象としました。こちらは明治三九年(一九〇六)九月に建立されており、石碑の脇にある周旋人などの名前の記載のある石碑によると、碑の表面の揮毫は「陸軍大臣 寺内正毅」とあります。こちらの石碑は「凱旋紀念」とあるように、戦没者のための記念碑ではなく、出征して生還した五六名の氏名が石碑の裏面に記載されています。この記念碑は、現在西向きに立っていますが、北側に「凱旋灯」と書かれた灯篭が一対あり、この灯篭には「日露戦役紀念建設」、「明治卅八年八月吉辰」と台座部分に刻まれてあり、「日露戦役紀念建設」とは少し時期がずれますが、何らかの関係性をもって設置されたのではないかと推測されます。

恩智神社にある「日露戦役凱旋紀念碑」

 最後に訪ねたのが、西南戦争の慰霊碑です。こちらは明治一一年(一八七八)に設置されています。恩智神社を西側に下った、恩智中町五丁目にある「恩智左近満一墓」の南側に設置されています。下の写真の中央にある供養塔が南北朝時代の武将・恩智左近満一の墓で、その左に見える緑色のフェンスの中にあるのが西南戦争戦没者の慰霊碑です。

「恩智左近満一墓」

 こちらにある西南戦争戦没者の慰霊碑は、既に『八尾市史』や『東大阪市史』で紹介されていますが、全部で一六基設置されてあります。形式は個人墓形式で、中には大阪市内にある真田山陸軍墓地(大阪市天王寺区玉造本町一四−八三)にも重複して祀られている人物のものもあります。『八尾市史』や『東大阪市史』の発刊の頃には発見されていなかった資料などもあり、現在と比較すると、記載に詳細を欠く点や誤りも含まれていますので、共著の書籍執筆の際にはそのあたりを改めることが出来ればとも思っています。

西南戦争戦没者の慰霊碑

 ここまで、前回の落穂ひろいで戦争慰霊碑、戦争記念碑を見てきましたが、限定された地域ではありますが、管見ながら近代以降の石碑の調査でこのようにまとまって書いたものは大阪府ではなかったのではないかと思います。まとめて写真が見れるという意味では、何らかのお役に立つかもしれません。
 石碑、石造物の調査というと、道標、石仏、灯篭など古いものに注目が集まりがちなのですが、こういう新しい時代のものは文献や史料などでも後付けが出来るので、建設された経緯や誰が携わったのか、あるいはなぜのその場所に設置されたか、あるいは移転したのかどうかなど、さまざまな関連情報が補足出来るでしょうし、またそのような関連情報によって、より豊かな地域史像が提供出来るのではないでしょうか。執筆にあたってはその点に気を配って書いてみようと思います。
 なお、補足ながら、山畑二丁目の忠魂碑や、恩智神社にある日露戦役凱旋紀念碑、恩智左近の墓の横にある西南戦争戦没者の慰霊碑の傍にも、それぞれクスノキが植えられていることにも改めて気が付きました。「クスノキは残った?!-身近な史跡、文化財の楽しみ方(11)」でも簡単に指摘しましたが、何らかの関係性がありそうなので、こちらも引き続き調査できればと思います。


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Nobuyasu Shigeoka
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