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#081戦時体制への音楽の活用-戦時下の河内音頭
著者の出身地域では古くから「河内音頭」というものがお盆の際に盆踊りとして活発に行われ、親しまれています。子供のころ、夏休み中にはお盆のころに近所の広場にやぐらが組まれ、提灯が飾られて、夜に盆踊り大会のようなものが行われています。その中で河内音頭の音楽が流れ、皆がやぐらの周りに輪になって踊るという光景が、ごく普通の夏休みの景色として見られました。著者などは、数少ない夜に友達と遊べる機会であったので、盆踊りなどはそっちのけで走り回って遊んでいる口でした。
このような環境で成長したため、どこの地域でも盆踊りが行われ、その地域ごとに独特の盆踊りがあるものだと思い込んでいました。二〇代の頃でしょうか、友人などに夏休みの思い出話などしているときに盆踊りについて聞いてみると、いわゆる旧河内国に当たる部分ではもちろん河内音頭が踊られていたのですが、旧摂津国にあたる地域では江州音頭が踊られていると言われて、意外な思いがしたことを記憶しています。滋賀県では、旧近江国であるために江州音頭が当たり前のように踊られていることは想像できましたが、摂津に当たる地域にはその地域特有の盆踊りが無く、随分と地域的に離れている近江のものが踊られているとのことでした。他の地域について詳しく調べたことはないのですが、河内や近江のように、その地域の盆踊りを持つところと、独特のものを持たない地域というのがあるようです。
河内地域ではいつごろから盆踊りが踊られるようになったのか、どこが発祥のものなのかについては、北河内を発祥とする説や中河内を発祥とする説などに代表されるように、いろいろと論争があります。ここではその点は捨象しますが、今回は新聞などから近代の河内音頭の様子を見てみたいと思います。
現在も中河内地域では、八尾市本町に所在する臨済宗の寺院・常光寺は盆踊りで名高い寺となっています。この常光寺については、江戸時代初期には徳川家康の政治顧問であった金地院崇伝(以心崇伝)の寺であったこともあり、大坂夏の陣において徳川方の藤堂高虎の部隊と豊臣方の長曾我部盛親の部隊が門前で激突して激しい合戦が行われた場所としても知られています。
この常光寺は、明治期には既に「八尾の地蔵」として親しまれていたようで、『大阪朝日新聞』明治四二年(一九〇九)八月二三日付の記事によると、毎年八月二三日、二四日の両日に地蔵会を開催していました。地蔵会の際には、大阪市内や堺からも露店が出店されて、境内は非常な活況を呈していたそうです。特に二四日の夜には盛大な盆踊りが催されており、「是れぞ河内音頭の本場」ともいうべき賑わいであったと記されています。このように明治後期には既に名物になるくらいに、常光寺の盆踊りは名前が知られていました。しかし盆踊りとは記載されておりますが、「河内音頭」とは新聞紙上では記載されていないので、「河内音頭」という名称がいつごろから定着し出したのかは定かではありません。
その後も河内地域での盆踊りは盛んに行われており、昭和に入っても行われていました。戦時下では河内音頭の戦時活用もされていたようで、昭和一一年(一九三六)、八尾別院と呼ばれる大信寺(八尾市本町)において仏教盆踊大会が開催されています。この仏教盆踊大会は文部省内仏教音楽協会によって制定された仏教盆踊歌によって行われたそうで、参加者約三〇〇名余りがレコードの音楽に乗って踊ったそうです。
ここで、仏教音楽協会というのが突然出てきますが、これはどんな組織なのでしょうか。国立国会図書館の蔵書で検索してみたところ、昭和に入って『仏教聖歌』という本などを出しており、どうも東京、京都などで支部があったようです。Ciniiで何か仏教音楽協会に関する研究が無いかを検索してみたところ、福本康之「昭和戦前期の仏教洋楽に関する一考察(一)―「佛教音樂協會」と同協会京都支部の活動を中心に―」(静岡産業大学経営学会編『環境と経営 静岡産業大学論集』7巻1号、2001年4月)という論文が出てきました。
この論文では、本論としては仏教洋楽についてが本論なのですが、このなかで仏教音楽協会についても触れています。この論文によると、仏教音楽協会は大正一五年(一九二六)年春に立正大学教授・小林一郎と男爵・岩崎小弥太らによって設立された私設の団体で、昭和二年(一九二七)に文部省宗教局内に事務所を設置された外郭団体ともいえるような組織だそうです。ここでは仏教普及にふさわしい曲の選定と普及活動が行われていたようで、レコードや歌集の発行を行っており、それらが国立国会図書館などに残されています。
この論文では、仏教関係諸団体により協力によって普及活動を行っていただろうということが書かれています。仏教音楽協会は、いうなれば文部省宗教局という国家権力を背景に、「文部省推奨」のレコードを活用して、地域にある寺院によって、仏教思想の普及啓発を広く行っていたといえるでしょう。そのような「文部省推奨」の音楽の中に仏教盆踊歌=「河内音頭」も含まれており、戦時体制への協力と仏教思想の普及を娯楽に合わせて行っていたといえるでしょう。
この問題は、まだまだ不明な点も多く、「河内音頭」という名称の成立についても何か手がかりを得ることが出来るかもしれませんので、今後も折を見て史料を探していきたいと思っております。
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