駒より筆を選んだ女
先週末は『将棋ペン倶楽部通信57号』誌の発送。将棋ペンクラブは年4回会報を発行しているが、初夏と年末は通信号で中綴じの薄いもの。57号も計48ページ。
黄信号さん(もちろんペンネーム)の受け持っている将棋川柳のコーナーに、今号も湯川恵子さんが投稿していて、
こんなにも弱いが将棋おもしろい
とあるけど、1976年1981年1984年1987年1988年と「女流アマ名人戦」5回の優勝経験ある恵子さんに弱いと言われては、こちらの立場がない。
その恵子さんと、通信発行後に1局。……じゃなかった、一献。当然「一」では済まず、ビール、日本酒、ハイボール。将棋以上に酒が強い恵子さんはサワーも。
恵子さんは女流アマ名人戦を5回獲ったあと、出るのをやめてしまった。「強すぎるからもう出ないでくれ」と、ご遠慮を強いられた噂もある。もし出続けていたら、6回、7回と獲っていたかもしれない。とにかく出るのをやめてしまった。本人によると、将棋よりも本や文章の方が、関心が高かったからとのこと。それ以降、恵子さんは作家、将棋ライターになった。
だから恵子さんと呑むと、将棋の話よりも本や作家の話になる方が多い。恵子さんも、本や文章の話の方が、熱が入る。酒も進む。
なにしろ最近も、ルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引書」を読んで感動し、市のボランティアに申し込んで掃除婦をするようになったのだ。
小説を読んで、それに感化されて小説の中に出てきた職業に就いちゃうというのは、並みの本好きではない。ルシア・ベルリンは物故作家だが、天国でよろこんでいることだろう。もちろん恵子さんが行動的ということもあるが、でも、そういう気にさせる作品もスゴい。そしてまた感化されたのがルシア・ベルリンでよかったとも思う。フォーサイスの「ジャッカルの日」だったらたいへんなことだった。
その本好き恵子さんには何作もの著作があるが、上記画像の通信と合わせて写したのが『女の長考』。昭和61年発行の将棋エッセイ。西暦だと1986年だ。この裏表紙のとじ込み部に載っている著者近影、ここに載せたら本人怒るだろうなぁ。このエッセイは古本屋さんで入手したのだが、こういった良作が埋もれているのはもったいない。ちょこちょこと掘り出していこうと思う。
全36章のエッセイの12章は『「子供」の幻影』という文学的なタイトル。やはりこの頃から将棋以上に文学だったのだろう。ただ、この本を発行した時点で女流アマ名人戦での優勝は3回目。この翌年、さらに次の年と連覇するという、指し手としては最盛期だ。
その12章では、新春アマ女王戦が書かれている。場所は日暮里将棋センター。日暮里ということで、この棋戦のゲストはあの小池重明。女性40人ほどの参加者だったそう。
賞品が、昭和という時代を感じさせる。
優勝 石丸自転車
準優勝 ラジオカセット
3位 オーブントースター
4位 味の素ゼネラルギフトセット(コーヒー詰め合わせ大箱)
5位 電気掛時計
6位 味の素ギフトセット
7位 ヘアーセット
8位 電気包丁とぎ器
その他に新人戦と敗者慰安戦にも賞品があり、また参加者全員に味の素コーヒーセット(3千円の重たい箱)が出るという。
アマの女流棋戦に、手厚い賞品だ。バブル期だからだろうか。しかし賞品自体には、時代を感じる。なんだろう、ヘアーセットって。くるくるのカーラーだろうか? 昭和の女性は寝る前のカーラーとパックが欠かせなかった。
組み合わせはくじ引きのトーナメントで、この日の恵子さん、2回戦で小学校6年生の大庭美夏ちゃんと当たる。「ちゃん」、です^^
この章はタイトルに子供が入っていて、ようは子供との対局のことを書いている。
子供というのは、妙な欲がないせいか、あまり幻影におびえてくれないから、困る。相手が誰であれ、一心不乱に盤面のことばかり思いつめているから、つまらない。負かすと泣くんじゃないかと心配だし、かと言ってみすみす負けて頭を下げるのもシャクに障る。
思い切ってケンカできないから、私は一手ごとにオロオロしてしまうのである。
恵子さんは子供との対局が苦手なのだ。ぼくは交流会などで恵子さんの対局をよく見るが、初心者の女性や子供にもビシビシ指す。もうちょっと手加減して指導してくださいよ、という場面でも、気持ちが入り込んで押し黙って前のめりに盤上没我なのだ。
旦那さんの湯川博士師匠は対照的で、初心者にはコーチ役に徹して、やんわりと話しながら指す。もちろん、手も緩める。恵子さんは加藤一二三っぽくて、湯川博士師匠は内藤国雄といった感じだ。
このときも苦手な子供の美夏ちゃんに、集中力を欠いて、
なんと6五同金! 子供は苦手だ苦手だと思っている間に、指が勝手に動いてしまったのだと、本には書いてある。美夏ちゃんすかさず、というより当たり前だが、7七歩。
終盤でつい夢中になって、気がついたら勝っていたが、その時、美夏ちゃんの目が赤くなった。みるみるジワッと濡れてきた。
私はハッとして、急に後悔した。
美夏ちゃんは必死でこらえてくれたが、以前、他の女の子に目の前で長いことボロボロ泣かれた経験がある。子持ちのおばさんとしては、自分の娘をダマしていじめたようで、いたたまれない気持ちになるのである。その彼女は女流プロになったが、今でも泣いているだろうか。
と、本にはある。こんな大ポカのあとにひっくり返されたんじゃ、男だって泣きたくなるだろうが、恵子さんはとにかく定跡知らずの終盤型なのだ。
恵子さんは3回戦で大人の女性に勝つ。対局前に相手は、胸を借りるつもりでやるわ、と恵子さんに言う。
そこには、大人の謙遜とか、余裕とか、優しさがある。そして敵のタイトルに対して多少「幻影」を持っている様子も、感じられるじゃありませんか。
と、子供とちがってやりやすいということを書いている。そして順当に勝って、恵子さん、準決勝でまたも苦手な子供と当たる。中学3年生の久美ちゃんだ。山田久美ちゃん。
ここでは3回戦とは逆に、対局前に恵子さんが話しかける。ご機嫌取りの気分で、意識してだ。そして、負ける。
寒い帰り道、つくづく思った。なんのことはない、私は、「子供」という幻影に、おびえていたんじゃないかしら。
という言葉で、この章は締められている。
名エッセイ。古本屋でいくらで買ったのか忘れてしまったが、この章だけで元は取れてるんじゃないだろうか。
駒より筆、盤面より升目を選んだ女の文章は、そのまま埋もれさせるには惜しいものだ。また紹介したいと思う。