人生の神秘が課題に変わる瞬間なのかい
自分の機微をよしよしする100日ドリル 12
さて、今日も書いてみよう。
超個人的なワークだけど、読んでもらいたいという欲が捨てきれず、タイトルをつけて更新することにしてみた。
昨日、夫が我が家のひっ迫した経済状況について頭を抱えていて、私はそれについてどーかんがえてるんだろ。お金とか。なんかエネルギーの循環としてのお金の体感があったからか、まだ屋根あるし床あるし水あるし電気もガスもあるし灯油も買えるし、薪もあるし、ごはんもおやつも食べてるし温泉も行けてるからか、まぁ今のところほとんど夫頼りなのだけど、ちょっと私には欠けてる感覚なのか。よくわかんなかった。ズべべ。
から、ワークの続きをしよ~っと。お金についてもそのうち見えてくるだろ!
小南式「自分の気にアクセスするワーク」のstep3は
「本当の自分は身体ではない」とすること。「意識のパワーの基に内なる作業をすることで、内なる自分とともに病気は治癒できる」という立場をとること。これを自分の解釈で言葉に落とし込み、意志のコンテナをさらに丈夫にしていこう。
「身体は私の大切な一部分で、全てではない。だがとても大切なものです。」
「私の持つ意識のパワーを真実に、感じること、思い出すことを取り戻し、内なる自分を掬い取り、いつも一緒にいることで癒し、内と外にある課題は神秘の姿を取り戻す。世界とは私。」
ってかんじや。もう、言葉の意味より、かんじや。ドカーン!!
本当の私は身体ではない、と言い切るより、変えた。「意識のパワー」ってなんだろうって思ったから、感じようとしたら、「私が生きていて、意識をもって、マインドと身体をつないで感じている考えていることがまぎれもない神秘で真実じゃん」ってなった。
その真実を感じきり、神秘であることを知っている自分を思い出し、それが子どものころであるイメージがあったから、大きくなった私とその子はいつも一緒で、さびしいときも一緒で、こわいときも、かなしいときも、一緒に、抵抗せずに、感じていることを感じて、そうすれば癒されると感じた。内と外にある課題は神秘の姿を取り戻して、世界は私だった。それが神秘で真実だった。
学生の頃に傾倒したヘルマンヘッセの物語にも、こんなことが書いてあったなあ。涙を流して読んだなあ。なるほど。物語の骨頂も、一人の人の愛の苦悩を語り、それが万物の神秘を語ることにあるのだな。。
『自己否定をやめるための100日間ドリル』にも、「恭くん」がでてきたなあ。私には「さちこちゃん」がいるなあ。かわいい名前だねー。あっ、大きな私の目がうるんできたよ。「さっちゃん」だとピンとこなかったんだけど、さちこちゃんだったんだねー。
『~NEW APPROACH』では、マインドの中身はその人らしいものの見方・理解の仕方・反応の仕方・思考・感情の傾向がプログラムされていて、それは幼児期の体験が「その時の理解力」によって解釈し、それを事実と信じ込み、出来事への対応の方法まで「その時の理解力」まま編み出し、プログラム化している。と書かれていて、この部分は非常にわかりやすかった。
「幼児のころの自分」、の「その時の理解力」。
神秘の中に生きていた私に、課題が生まれたその時だったのだろうかな。愛しすぎるやんけ!よしよししたい!
そして、万人に、その瞬間があったのだろうか。私の夫にもよ。そして、今神秘の中から課題を抱えんとす私のこどもたちよ。
また、おもいが、かんじがわいてきたけど、明日にしよう。
おわり。