『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』
人間は愚かである
「30%オフ!」の文字に釣られて余計な買い物をしてしまったことはないだろうか?夏休みの宿題を慌てて最終日に片付ける羽目になったことは?マッチングアプリのプロフィールがいつも実物よりほんの少しだけ魅力的に書かれるのはなぜ?
今挙げた例はどれも私自ら経験したことだ(最後の例に関しては、プロフィールでは45kgとあったのに実際に会ったら70kgだったから「ほんの少し」の範囲を「ほんの少し」逸脱しているかもしれない)。こういった事例は日常にありふれていて「人間って愚かだなぁ」と思うことに事欠かない。そう、人間とは愚かなのだ。そして行動経済学とはこういった人間の愚かさについて研究する学問分野である。
行動経済学ブームの火付け役
私が大学に通っていた頃ーーつまり結構な昔の話だがーー行動経済学を扱う研究室はずいぶんと人気だった記憶がある。哲学科や美術史科などが定員割れしているのを尻目に、何倍だか何十倍だとかいう倍率が文学部の掲示板に張り出されていた。確か成績順で選ばれたから相当に努力したものしか入れなかったはずだ。
私は兼ねてより国文学をやりたいと思っていたから、ギリギリで希望の研究室に滑り込めたことを喜ぶのに忙しかった。だからこんなに頑張ってまで学びたい学問とは何なのだろうとぼんやり思ったくらいだが、もしその頃にこの本に出会っていたなら私は行動経済学を志していたかもしれない。そして自分の愚かさを自覚してもう少し賢い生き方をしていたかもしれない(本当か……?)。
ダン・アリエリーの『予想どおりに不合理』は今から10年ほど前に書かれた、行動経済学についての本だ。行動経済学とは「判断・意思決定科学」とも呼ばれる。その名のとおり人間の意思決定についての研究分野で、この本は行動経済学ブームの火付け役とも言われている。また、この本が書かれた背景には古典的な経済学に対する懐疑の目線も存在したようだ。
たとえば古典的な経済学が想定する経済主体は何%オフであろうといらないものはいらないといって買わないし、老後の貯蓄は計画的に実行する(むだに浪費しない)。
だが現実の人間は違う。いちばん最初にも例示したとおり、人間の不合理な行動は容易に、そして日常的に観測できる。古典的経済学はイディアルな経済人の集団として人間社会を捉えようとするが、この本はその先へ進むことを促そうともしている……少なくともそういった動機はありそうだと思う。とはいえ実際のところ、この本の範囲では具体的な政策立案というより人間の不合理さがどういった場面でどのように働くかということの説明だったり、大きな大きな方向性としての「無料のランチ」ーー全ての利用者にとって純便益をもたらす仕組みを示唆するにとどまっており、人間の愚かさ研究本といった趣のほうが強いように感じられた。少なくとも私には。
事例や実験がおもしろすぎる
さて、この本のタイトルが示すように人間の不合理性はあまりに「予想どおり」でもある。本の中にはめちゃめちゃおもしろい事例や実験が数多く紹介されているのだが、特にお気に入りの実験を一つ紹介しよう。それは「無料!」の力について調査するものだ。
「無料!」の実験
実験内容はシンプル。ある場所で二種類のチョコレートを売る。ただし客はどちらか一方、しかも一個だけしか購入することができない。
一つは「リンツ」。スイス生まれの高級チョコレートで、まろやかな舌触りのトリュフは絶品だ。通常、一個当たり30セントで買える。
もう一つは「ハーシー」。「キスチョコ」と言えば特に説明する必要もないだろう。日本人からすると少しくどく感じる味だが、アメリカ人の味覚からすると「ありふれたチョコレート」らしい。要するにリンツより質も価格も低いチョコだと考えて差し支えない。
彼らはまずリンツを15セント、キスチョコを1セントで売ることにした。訪れた客たちはそれぞれの値段と品質を比較してからいかにも合理的な費用便益評価を行い、およそ7割がリンツを、3割がキスチョコを購入した。
次にそれぞれの値段を1セントずつ下げてみることにした。この時リンツは14セント、キスチョコは0セントで「販売」されることになった。もしお客がつねに合理的であれば、比較対象の価格が同じだけ下がっただけなら(少なくとも今回の事例では)選択に影響は出ないはずだ。
しかし実際の結果はというと、人々はすっかり「無料!」のパワーに魅了されてしまったようだった。なんと7割がキスチョコを選び、リンツを選んだのはたった3割と完全に結果が逆転してしまったのだ。
一体どうしてこんなことが起きてしまったのだろう?もし仮にこの実験でチョコレートが「何個でも買える」のであれば、ゼロコストのキスチョコをあるだけ掴んでいくのは非常に理にかなっている。しかし今回の実験でお客は一個しか買うことができない。つまり、一つ目と二つ目の実験で費用便益分析の結果はほとんど変わらないはずなのに、「無料!」の文字がひとたび踊り出した瞬間、客たちはよりお得なはずのリンツではなくキスチョコを我先にとつかみ取っていったのだった。
人は失うのを恐れ、より多くを失う(こともある)
「無料!」にはわれわれ人間を強烈に惹きつける何かが存在するようだ。もしかしたらわれわれ人間は「何かを失う」ことを本質的に恐れていて、何も失わずに手に入るとなった瞬間それを確実に手に入れようとするスイッチが入ってしまうのかもしれない。
こうして人間は「無料!」の魔力に惑わされて幾つもの愚かな選択をしてしまうのだ。「無料」のウォーターサーバー、「無料」のオイル交換……その選択が将来より多くの出費をもたらすと頭でわかっていても、「無料!」の魔力に抗うことはとても難しい。
実験する人ってすごい
この本の中にはこういっためちゃくちゃに面白い実験がたくさん書かれている。しかし実験の面白さもそうだが、何より人間の愚かさ検定みたいな実験をこんなにたくさん(13章あるが、一つの章につき4〜5個ほど実験を行っている)思いついて実行する筆者の知性というか、仮説立案力みたいなものがすごいなと思う。人間の行動に対する深い観察と理解がなせるわざだと感じた。
また、この本を読んで自分が不合理な行動を行うことに少し自覚的になれたと思う。もう少し注意深くそして思慮深く生きようという気持ちを与えてくれた。今後、「無料!」や「○○%オフ!」の文字が見えたら立ち止まって考える癖をつけようと思う。マッチングアプリの体重は+10kgして考えれば後悔することもないに違いない。
おわりに
今回読んだのはダン・アリエリーの『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』。前にも述べたとおり10年ほど前に書かれた本だが、もしあなたが行動経済学に興味を持ったり、「人間って愚かだ……」と日常的に思っているタイプだったり、はたまた面白い実験をたくさん読みたい!という人であればぜひ手に取ってみてほしい。きっと満足できるはずだ。