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安岡章太郎「夕陽の河岸」書評

菅原ゼミで読んだ短編小説の書評をこれから連載していきます。トップバッターは篠岡綾菜さんです!

安岡章太郎「夕陽の河岸」(日本文藝家協会編『現代小説クロニクル1990-1994』講談社文芸文庫、2015年)

評者:篠岡綾菜

 孤独とはたった一人で生きていくことだけを指すのだろうか。孤独死という言葉があるように看取って貰える間柄の人がいないことだけを孤独というのだろうか。周りに家族がいて、友達がいても感じる孤独がある。輪の中にいるはずが疎外感を感じてしまう。周りが気づくことができないことを孤独というのではないだろうか。
 主人公から見たGは男ばかりの三人兄弟の真ん中の子で何かと損をしたり、くすんで見えていた反面、賑やかなところに憧れを抱いていた。「チャンガ、チャンガ…」と踊る様子は楽しげで主人公がGに抱くイメージが形成される出来事だと考えられる。私が思うに、主人公とGは大した間柄ではなかったのではないか。学年は一緒だが、通っていた学校が一緒なわけでもない。互いの親同士が知り合いで、親が予定を立てた時くらいに会う程度だろう。実際文章中でも、Gの情報はどれも人から聞いたり、日記を見たり、想像ばかりだと感じた。それなのになぜ、主人公が年老いた今頃になってGが現れたのだろうか。
 Gは生まれつき暢気なところがあり、学校では出来の悪い劣等生とばかりつるんで、優等生仲間に入ろうとしなかった。それを気に入らなかったのかGの母は三人兄弟の中でGばかりをひどく叱った。しかし、Gは全く勉強ができないどころか学年で二位をとるほど勉強がよくできた。しかし中学受験はことごとく落ち、これもまたGの母を落胆させた。主人公も、他人事のように受験の失敗を憐れみ、どう話していいかもわからず、距離を置く形になってしまった。その後、最年少で幼年学校にすんなり合格すると、そこでも、よく叱られ、それでも陽気に過ごすGの姿があった。Gは持ち前の暢気さがアダとなり、どこにいっても、目上の人から叱られる性分のようだった。
 そして調べていくうちに演習中の事故により亡くなったと思われたGは実は病死だったという事実が明るみになった。友人はたくさんいたものの、最期は母親のみだったことも分かった。なぜ、そんな大事なことを主人公は間違えて記憶していたのだろうか。演習で死んでしまった人もいる中で病院で母親に看取られて死んだだけでも仕合わせ、という内容が書かれているが、私はGはとても孤独だったのではないかと感じた。生涯、目上の人には認めてもらえず、友人は多くても「あいつは暢気だから大丈夫だ」と心中を案ずる人は少なかったのではないか。人知れず、孤独を感じていたGは病院で静かに死んで行くより、軍服をまとい、かつて憧れた騎兵の姿で死ぬほうが本望だったのではないだろうか。
 真実を知った途端、さっきまで美しかった河原は不気味に見え、夕日を眺めながら懐かしんだ過去は粉々に散ってしまった。真実とは時に残酷だ。特に失ったものはどうしようも出来ないし、何十年も過ぎてしまえば、後悔するには遅すぎる。秋の夕暮れの河川敷に突如として現れたGは騎兵隊の格好で馬に跨り、目の前に現れたその姿は綺麗な夕陽と風になびくススキと相まって美しい情景を連想させた冒頭とは裏腹にずっしりと重く、不穏さが残る作品だった。



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