佐藤 宏美
拾ってきたモノからかぎ針編みでカタチを 派生させるようにして作品をつくっています そういう制作の日々のなかで 思考錯誤して、気づいたことの「編」
わたしはイイ大人になってから突然また 作家を志してしまって 美大はでてるけど専攻とは全く違うものを 選択してしまっているので何のしがらみも コミニティーもジャンルも持てていない… いわば「浦島太郎」ちゃん 人の話は自分を含め全部違う 立ち位置 視点 論点 だけどみんな一緒のことがあるのに気づいた 「議題」=「どうやったら売れるか」 「今の若い子はそれを考えてつくってる」 って😱ひょえー 今、そんなんなってんのー!? 待って待って待って…そこ違くない? 作家同士で話す
モノの見方とイコールかもなとふと思う 自分の場合はそこに何が「在るか」が 肝になっているように思う だから モノの延長で「空間の容積」を減らそうとか 「空間を演出」するとか 「空間を彩る」とかは「みてない」 庭を例にすると最後の最後に置く つばき一輪のそのひとつに感動するから その過程より「つばき一輪の存在感」を 得たいと思う 建築好きなのでそれは別に ミクロにみてるわけじゃない 要はポンと置いた時の「空間感」 「空間」は「空虚」であることがよしとする 「おさまり」と
投げかけられた文脈が消化できないと 🌀ぐるぐるする それがどういうことなのか それはどういうものなのか それに対して沸いてる自分の感情が治るまで 調べたり思考する そういうことか!と腹落ちすると溶ける 昨日から1つぐるぐるがあってぐるぐるしていた 投げかけられた文脈に感情はイラっとしていて でも文脈のイメージは捉えられていたので それを凌駕できない自分の中味に悲嘆していた 今、待ち合わせ時間までに時間があるので 持ってきた本を開いたら1ページ目に答えが開かれた 前に読ん
今回の展示はこれまでのギャラリー内の展示の中でも秀逸で会場全体に引き込まれると 口々に感想をもらっている 元々、作品は全方位的に作っているので 上下左右が完成するまでに何度か変わることは 通常営業ではあったし、一週間前の銀座での展示で 置きにしたり、掛けにしたりと実験して 毎日上下左右変えたりしてはいたのだけど 今回の展示は大物ばかりでまさかそれまで 変えても成立するとは自分でも思ってなかった 自分の中にも「ここ」っていう展示のバランス感覚は もちえてるけれども、今回は
自分のことを 一人で逡巡していても、ぐるぐると おんなじ道をループするばかりで 自分ではなく道しか見えないけれど 外から声を掛けてもらえると 下を見ていることに気づく そうして自分の見ているものへの対話を 投げかけてもらうとその言葉やモノゴトに 心と頭が動いて自分という素材が削られて ああ、いまの自分はこんなんだなと 自分の思い込んでいた自分との差異がわかる 自分のカタチが視えてくる 人間ってなんで間が入ってるのかなと 思っていたけれど、自分の間に人が入らないと 自分のこ
来春の個展用のメインの大物を制作中なのだけれど 大きなパーツの二つめをつくってあわせたら これがなんとも「あわない(似合わない)」 結構な時間をかけて「いい感じ」になってきたので あわせてみたのに全く駄目 1メートル四方はゆうにあるので 上下を別パーツにして運びたいわけです 頭のなかの「イメージ」と目の前の「現物」は そもそもいつもそうだけど「別物」なので 別物同士をあわせたらそりゃ駄目だよね… くっついてないけどくっついてるつもりで またやり直してる とはいえど… 出
時間と心と体 それぞれの記憶の差異 たまに起こるそれが 他世界とかパラダイスシフトとか いうやつかもしれないなと最近思う だいたい人間は「自分」以外のことを 考え続けてるよなとふと今更ながら気がついた (晩御飯のメニュー、仕事の段取り、アイデア 天気、家族のこと、などなど) 他世界のイメージはあるAづつに対しての 放射的他世界という一視点発想ではないから 物理的に存在してるのに人間は認知できない のではないのかなとふと思った 視点とか行動(現象)が瞬時瞬間的に 全て
物をよく知ることは 物を解体して行くのに似ている 解体した分だけ 自分も解体されていることに気づくと 物なんて創る意味無いと 投げ捨てたくなる気持ちになる 解くインスタレーションなんかを観ると ああ、そうだよねと激しく共感したりする でも、投げ捨てて残ったのは 何かを拾い集めていたいし 手を動かしてカタチを「創りたい」 白黒のオセロのひとつ パタパタひっくり返したりしなかったり 縦にしてクルクル回すとおもしろい ぐるっと周ってひとまわり 意味なんてなくてもまぁいいの
先日ちょっと使ったら、なんか調子が悪かった 車とかバイク風にいえば、 エンジンの立ち上がりが悪いとか ミッションの入り具合がおかしいとかに似てて 糸の調子が合わせてもちっとも上手くいかない 20年は使っててなんにもメンテナンスしてないから どっか緩んでるとか減ってるとかなんか あるのかもしれない…ちょっと今思ってることが ひと段落したら、何処かにお願いしてよう と、思っていた矢先 近所のイオンに買い物行ったら 入った瞬間ロビーで「ミシン修理します」って 期間限定の出店看板
役に立つか?害なのか?の答えは 使う側が「自分の頭で考える」ことがちゃんと できるか?できないか?だけしかないし 使い捨てな「画像」大量生産の流行でしかないし 所詮一番怖いのは人なので 「人類への脅威」とは思ったことはない…けど docomoのラジオCMで 感情や味覚感覚を数値化とか電気信号化とかして 共有(コミュニケーション)したいというのが あって、それは「怖っ🥶」「おぞましい」と 思ってしまう 本当にわたしの感覚を誰かに伝えるとしたら 受け手の器…うーん…例えば
友人に勧められてアマプラで観た 自分の絵を盗まれた画家が 盗んだ泥棒の肖像画を描くというのが 物語の軸なドキュメンタリー 『画家と泥棒 観た 登場人物が出来好きてて事実は小説より奇なりでしかないのねぇ… 自分の中で突飛なものが全くないのでなんかリアルに、そっちの世界線に行かなかった自分グッジョブ! ラストの画、絶対そーだろーなと思った…』『そして、映画の題材になってもバルボラは画家としての知名度は上がってないってとこが ヨーロッパだなぁと』 と感想を送った 《あら、
今AbemaTVで西尾維新の「物語シリーズ」が 少しずつ無料配信されている (何度観てもおもしろい) 『憑物語 よつぎドール』冒頭 「人形の怪異」について滔々と語られ “語られない怪異は―怪異たり得ん” と結ばれるんだけど その滔々と語られ、結ばれたなかの 「怪異」⇨「美術」に変換すると とてもとてもその通りだなと納得する 制作したり、発表したり、自己発信してるだけでは やっぱり意味を為さない 自分も誰かの作品をみて感化されて 観る側ではなく創る側になりたいおもっ
『HELLSING』 #平野耕太 の漫画作品に登場する「少佐」の台詞 (OVA版のアニメで知ったんだけど) この「少佐」名前がないので「少佐」しか 呼べないおかげで、今までわたしの中での 「少佐」は「#攻殻機動隊 草薙素子」か 「#バイオレットエヴァーガーデン が呼ぶ少佐」だったのに 紛らわされて嫌なヤツだけに忌々しい(笑 さてさて。 この少佐の愛するその「手段」というのは「戦争」のことで 戦争ができるなら目的は選ばないという 物騒なストーリーの為の【悪魔的志】の台詞だ
わたしは『いい大人』になってからまた美術を志すことにした時、自分の強みは何なのかに真摯に向き合った。背伸びせず、自分しか出来ないと思い切れる手段として『手芸』の中でも『編むということ』を選んで制作をし始めた。 『現代手芸講』 上羽陽子・山崎明子編 【美術作品が手芸的な、あるいはファッション的な要素を持ち合わせているときそれは美術作品として承認されにくくなるだろう】 こんな本を見つけて読んだ “手芸 ≠ 美術作品として承認されにくい” まぁ、ジャンルがないなぁと悩んだ