ドラマ「終りに見た街」を見て、「知性の価値」に想いを馳せる
山田太一原作のドラマ「終りに見た街」は、クドカンが脚本を手がけても、やっぱり怖かった。
このドラマを私が初めて見たのは1982年、小学生のときだ。
その時はあまりにも衝撃的なストーリ、とりわけラストにショックを受け、
文字どおり眠れなくなった。
いくつものシーンの映像が今も脳裏に焼きついているほどだ。
2005年の2度目のドラマ化は見ていない(あったことも知らなかった)。
今回、「見たことがない」という夫と見るため、いそいそと録画した。
夫はクドカンのファンなのだ。
あらすじをざっくり説明すると、大泉洋演じる主人公の脚本家とその家族が、ある日いきなり現代から昭和19年に家ごとタイムスリップする、というお話。終戦まで生き延びることができるのか、そして、再び現代に戻れるのかーー?
最初のうちは、クドカンらしいユーモアとテンポの良さに
笑いながら見ていられた。
とくに主役の田宮役の大泉洋と、寺本役の勝地涼の掛け合いは笑えた。
私は勝地涼さんが結構好きなのだが、なぜかチャラくてふざけた若者の役が多い気がする。格好いいし演技も上手いのに、なぜ「普通の男性」の役が来ないんだろう。
閑話休題。
タイムスリップした日、様変わりした風景を見て田宮が笑い出したり、
子供たちが「タカシマヤ」や「はま寿司」といった、自分の好きな存在の消失にひたすらこだわったり、
クドカンの描く「現代人」は実に的確だ。
便利で快適な現代から戦時中へタイムスリップしたとなれば、
「空腹を抱えた、不便で悲惨な暮らしぶり」に焦点を当てたくもなるが、
クドカンの場合、その辺りはさらっと流す。
むしろ、勝地くん演じる寺本が、様々な場面で姿を見せる不気味さが
物語を引っ張っていく。
終盤、歴史を裏切るような展開が起きてから、
例の「ラスト」への雪崩れ込むような展開は本当にすごかった。
見終えてから、私も夫もしばし言葉が出なかった。
実際、戦争に巻き込まれるというのはこういうことだろう。
大事なペットとの仲は引き裂かれ(やはりここは泣けた)、
生き延びることだけを考えて、盲目的に目の前の作業をこなし、
いきなり襲ってくる爆撃で、別れを告げる間もなく家族と引き裂かれ、
次の瞬間、自分の身に信じられないような災難が降りかかる。
そして、すべてを引き起こした張本人は、
寺本のように安全な地下シェルターで、楽しくワインを飲んで、
浮かれ騒いでいたりするのだ。
なお、夫の感想を聞いてみると、
主人公が依然と変わらず知性と善意に基づいて行動しているところ、
子供たちがみるみる右翼化していく姿が描かれている点が
衝撃的だったという。
たしかに、戦時中は「自分の頭で考える人間」よりも
「何も考えずに命じられたまま行動する人間」が重宝される。
そしてそれは、「全体主義」の重要な要素ともなる。
最近めっきり聞かなくなった「ペンは剣よりも強し」という言葉を
思い出した。
日本では「インテリ」を人を揶揄する言葉として用いるけれど、
そのあたりに危ういものを感じずにいられない。
子供の頃に見たバージョンでは「平和のありがたさ、大切さ」を感じたが、今回のクドカン・バージョンでは、「平和の背後にひそむ不穏な影」を感じ、
見終わった今も背筋が寒くなるような感覚を味わっている。
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