綿来かごめとは何だったのか
綿来かごめはどうして「死」というかたちで物語から唐突に退場したのだろうか。
2021年に放映されたドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」をアマプラで再び観た。
唐突に起こりうるのが現実の死であると反対に、操作できる物語の中でかごめの突然の死はまったく予定調和ではなく、リアルで衝撃的だった。
綿来かごめのように、この世にあるシステムのどこにもしっくりこないと感じていて自分のサイズで適当にぼちぼち生きてる、性のしがらみからも一線を引いているキャラクターはわたしの希望だった。
かごめが今日も何かに煩わされることなくこの世界の毎日を生きている。
そう想像するだけで、命に意味なんてないし、ただ理由なく生まれてきたのだしそれでいいのだと言ってもらえるような気がしていた。
作中で死因は明らかにされていないけれど(心筋梗塞と暗に示されてはいる)、自殺じゃないと思いたい。
自分にはできないことをこなせる人々を
「自分を囲む山」と表現したかごめ。
親友のとわ子は
「わたしもあんたを囲む山のひとつなの?」
と問う。
その問いに笑顔のまま答えない様子に、かごめだけが送った、かごめだけが知ってる、かごめがひとりで受け止めてきた孤独な過程を垣間見た。
かごめは自分に唐突に訪れた死に対して、すこしほっとしたりしたんじゃないか。
肩の荷を降ろせたりしたんじゃないかなどと想像する。
物語の中でかごめを唐突に退場させた意図は、元夫①とのことを描くためにそうしたのだろう。
かごめがずっといる世界線では露呈することはできない秘密の想いが夫婦の間にはあった。
この世にもういない人のことを中心に話すとき、気分として生前は言えなかったことが言えるようになる。
悪い意味ではなく、正者と死者の間で、また生者同士の間で、お互いに解放されるものがあるのだと思う。
それでも好きなひとだからずっと繋がっていたいし、これから先も見ていてほしいと思う。
わたしは失ったひとに対してそう望んでいる。
***
とわ子は40歳という年齢が経験する死の数を抜きにしても、喪失の多い人生を送っている。
母親、親友は亡くすし、元夫に関してはある意味では実は予め失われているようなものだった。
仕事も好きな現場の仕事から嫌われ役の社長業を引き受けた。
普通だったらなんかもう気持ちが爆発しそうなほんのり地獄続きであるはずなのに、この人はそうならない。
ものすごく大人なんだと思う。
利他的で、ひとを愛することができる人だから、だから彼女は元夫たちに未だにしつこく愛されているのだろう。たぶん永遠に愛されたままなんだろう。
そんなとわ子でも、
ひとりは限界なんだよ
誰かに守ってもらいたいんだよ
という。
3人の元夫たちにとってとわ子は自分を世界から守ってくれる心の防波堤だったように、とわ子もなんだかずっと新しい防波堤を求めている。
かつての夫たちでは敵うことのない根源的な波風が彼女のなかにあるのだろうか。
近頃わたしは人の心に波が立つのに理由も原因もあるわけではなくて、根源的な寂しさが横たわっていることが人の精神状態のデフォルトなのだと思いはじめてる。
生物として生まれた以上は引き受けないといけないさだめというか。
そういう、ままならなさとか寂しさが当たり前にあるこの世界で生きる人々に、洒脱で軽快でロマンチックに「あって当たり前。そしてそう悪いもんじゃない」と教えてくれるようなドラマはわたしにとって希望だった。