「当たり前」のレベルを上げると、結果は自ずとついてくる
成果がなかなか出ないのは、能力、実力の他に、運や人間関係、環境なども起因することがあると思います。ですが、「出ない」と嘆いている人の中には、ただ単純に実力や能力、運等の問題以外に、
成功者と比べて「当たり前の基準」が低い
という要因も考えられます。
私たちは生まれた当初、おそらくすべてのことが「当たり前」ではありません。生きていくうえで、様々なことを学び、幾度となく壁にぶつかり、苦しみ、時には泣き、それでも逃げることができず、何度も何度も繰り返し、見て、聞いて、体験し、慣れていくことで、自分の中の「当たり前」や「常識」と言うパワーワードに折り合いをつけることができていくのです。
ただ、人はある時期から、その壁にぶつかることや、苦しむことを避け、「当たり前」の水準を向上させようとしなくなります。子供の頃は、一人前になるために、あるいは学ぶことから逃げられないために、大人の監視のもと、教育や体験の過程で否応なく「当たり前」を向上させることができました。ですが、思春期あたりの年齢を境に、大人との接し方が変わっていく中で
「当たり前」が停滞する人と「当たり前」を広げていく人
に大きく分かれていってしまいます。
そうして、「当たり前」の水準がある時期からあまり広がらなくなってくると、自身の成長にたいしても"妥協"をするようになっていきます。これが、人としての成長、器の成長を阻害する大きな一因となるのだと私は思います。
ですから、「当たり前」を広げ、高め続けることができる人と言うのは、常に新しい経験、新しい知識を求めようとしますから、自ずとできることが増え、その行動にも良い結果が伴う確率が格段に高まっていくのです。
たとえば、1億で受注したプロジェクトに対して、1億の価格に見合ったソフトウェア価値を提供するのは、至極"当たり前"のことです。ビジネスは言い換えれば「商売」です。提供する商品と支払う金額が等価となるのは当たり前です。
「価値は1億のままだけど、自分たちの能力が低いから、
結果的に1.2億かかりました。だから1.2億ください」
は当たり前ではありません。契約内容次第ですが、基本的な契約法(日本の場合は民法)に基づいて考えれば、これはおかしい理屈になります。このように、当たり前のこと…すなわち客観的"常識"を自分の中で「当たり前」のことだと思えるかどうかで、ついてくる結果は変わります。
当たり前のレベルが違う人は、判断の基準が違う
みなさんの周りで、驚くほどすごい結果を出しているにもかかわらず、
「これくらい普通だよ」
「自分は全然大したことがない」
「上には上がいる」
「もっと頑張らないとすぐにダメになってしまう」
と言っている人はいませんでしょうか。
「謙遜じゃないの?」と思うかもしれませんが、実は、彼らはこれを心底本気で言っています。逆に、なかなか結果を出せない人ほど、
「こんなに頑張ったのになぜ成果が出ないんだ」
とへこみがちだったり、
「自分たちはこんなに頑張っている」
と、急に結果や成果ではなく努力を認めてもらおうと、矛先をシフトします。
なぜこのような状況になるのか。
それは、何を当たり前にするか、その基準が違うからです。高い成果を上げ続ける人は、
「役割」と「責任」、そして「対効果」
を中心に考えます。
たとえば、毎日大量にインプットとアウトプットを繰り返す仕事を与えられ、その依頼に対して「分かりました」と言った時点で、その責任を果たすことが「最低限必要なこと」と考えています。できる/できないとか、やりたい/やりたくないとか、面倒かどうかとか、頑張ったかどうかではなく、
「やる」と言ったら、やり切るのが当たり前
とスタート時点で、ゴールがどうなっているべきなのかを考えています。それが自分の実力以上の難易度だったとしても、「やる」と言った以上、「やりきる」のは責任上において当たり前のことだと考えます。
そうでない人は、「何もしないこと」…つまりゼロであることが通常の基準となっており、そこから行動を起こした過程に対して「自分は頑張った」と解釈します。結果、「やる」と言ったことでも、「難易度が高いせいでやりきれなかった。でも、自分の中ではいつも以上に頑張った。だから、仕方ない」と考えます。
あるべきゴールに達するかどうかは関係なく、スタートからどの程度頑張ったら自分の中の「当たり前」が納得できるか、と言う考え方です。ですから、彼らにとっては
平均値や一般論と言う逃げ道が「赦す」のであれば、
そこまでやれば赦されるのが当たり前
となっており、「1日に10ページ仕上げる」仕事であっても、どこかのサイトなどに「一般的には1日3ページ」と書かれていれば、3ページ頑張れば、赦されると思ってしまうのです。
ゴールベースで考えるか、スタートベースで考えるか
この差は想像以上に大きく響いてきます。まったく同じ能力がある二人でも、基準をどこに置くかで一ヶ月後には大きく成果や実力に差が出てしまっているでしょう。
たまたま同期と自分を比較できた時期があった
私がが新人のとき、出身学校も、過ごしてきた環境も同じような同期がいました。しかし、そこから1年が経過した時の、私とその同期との間には明らかな差がついていました。原因はいろいろ考えられますが、そのうちのひとつはやはり「当たり前の基準」の違いだったと思います。
当時は私も同じ新人だったので、指示された仕事一つひとつの業務量なんてわかりません。とりあえず言われたことを忠実にこなせるようになることが、新人の仕事だと思っていました。ですから、よくわからないけど「はい」と言うし、ただただ真面目に、言ったからには「成し遂げる」のが責任だと思っていました。
今でこそ、あの当時の仕事量は「ブラック」のそれと断言できますが、当時の私には比較材料が無く、わざわざ新人に振るくらいの仕事だから、それくらいは「当たり前」なのだろうと思っていましたし、その当たり前にがむしゃらにしがみつくしかできませんでした。一方、同期は最初の1年目にそこまで逼迫したプロジェクトに参画していなかったようなので、そこで「当たり前」の意識に差ができてしまったのかもしれません。
"できない"ことを"できる"ようにするための努力は、限られた時間の逼迫度によってかなり変化しますが、基本的に指示されたことが無理難題であっても、「はい」と言ってしまった以上は、やり遂げなければならない…と、少なくとも当時の私は考えてしまっていたのです。
それは、私自身の自己研鑽の努力と言うよりも、責任意識によるものだったと、今では思います(現在では、その仕事量を適切に配分するのが指示者の責任であり、上司として人の上に立つ者の必要最低限の能力だと思っていますが)。
同期の彼は、私より少しコンピューターに精通していたので、配属直後なのに、部課長とも最低限会話できる知見がありました。ですから、他の同期と会話する際にも「自分は偉い、自分は分かっている」と言う空気がにじみ出ていましたような気がします。さらに、逼迫した状況に身を置く機会がなかったこともあって、ますます自分の中の「当たり前」を育めなかったのかもしれません。
小さなように見えて、これが積み重なると絶望的なまでの差になってしまうのです。
自分の「当たり前」のレベルを引き上げるには、当たり前のレベルが高い人と付き合うこと
ここで有効なのは、「朱に交われば赤くなる」という昔ながらの格言です。最近だと、「あなたが仲の良い5人の友人の平均年収が、あなたの年収である」というのもありますね。
これは経験則的には、概ね正しいと言っていいでしょう。
自分の能力が足りていなくても、とてもレベルが高い人と一緒に働き続けていると、知らず知らずのうちに自分の基準もアップデートされ、いつの間にか優秀になっているということは珍しくありません。
OJTで人が育つということはそう言うことです。
「コンサルティング業界に優秀な人が多い」
と言われるのも、これが理由です。もちろんピンキリではあるのでしょうが、コンサル業界では「Quick & Dirty(短期間で、(通じれば)不完全でもいいから仕上げる)」という言葉があるように、未熟な担当にはかなり高いハードルが設けられます。
入社時点ではそれほどのレベルではなかったとしても、周りに優秀な人がたくさんいて、組織全体としての「当たり前」基準が高いからこそ、その中でもまれていくことで当たり前の基準が上がり、実力をつけることができるのでしょう。
逆に、配属後に1年経っても、2年経ってもたいして変わっていないのだとすると、そもそも周囲の環境が自身をレベルアップさせるだけの土壌になっていない(当たり前のレベルが同じ程度の環境)…と言うことなのかもしれません。
人間は弱いもので、いくら「頑張ろう」と決意しても、環境が足を引っ張るとすぐにその気持ちは萎えてしまいます。「部下の成長限界値は、上司の能力が上限となりやすい」のはそのためです。そして、世の中を見渡した時に、
「自分はなんとダメな人間なんだろう」と卑下したり
「周囲はこんなもんだから、これが妥当なんだろう」と満足したり
となってしまい、さらにパフォーマンスが下がっていく悪循環となります。残念ながら、自分自身の中に既にある「当たり前」に依存した努力や頑張りに満足した時点で、成長が止まること、うまくいかないことと言うのは、ほとんど決まってしまうのです。
そうではなく、「レベルの高い人と働ける環境を作るにはどうすればいいか?」と問いを立てて、それをかなえるために行動していくほうが圧倒的に成長が早いものです。
相対的に自分を評価するのであれば、常に自分よりも高い人と比較しなければ、自身の伸ばすべきポイントがわかりません。格下と比較して悦に浸っても、自身の能力は向上しません。自分一人の努力や勉強では、まったくたどり着けない場所や世界を見ることができるのは、高い水準の「当たり前」を見せてくれる環境のおかげなのです。
もしそのような高い水準の「当たり前」の中で一緒に働ける環境に既にいるとしたら、それは素晴らしくラッキーなことです。環境を逃さず、周りのとてつもなく優秀な人たちに引き上げてもらってください。
そうでない場合は、なんとかして「当たり前のレベルを上げられる環境」を作ってみましょう。転属/転職などもアリですが、コミュニティ等に所属して、ほかの世界をのぞいてみることもいいかもしれません。
社内であればワーキンググループ(WG)などを作ってみたり、所属してみるのもいいでしょう。私の友人でも、オンラインコミュニティに所属して自分の力を存分に発揮している人がいます。
職場や業務の内容から、たまたま力を発揮できない時期があったとしても、
こういうところで当たり前のレベルを上げるのも、ひとつのやり方です。視野の狭い努力だけに頼らず、「当たり前の水準を引き上げる」という工夫で、社会人人生の1/3以上を占める『仕事』と言う活動を楽しくしてみてはいかがでしょうか。