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「責任」とは

私は、中途採用者に対しても1日ほどかけて教育を行っているのですが、その中に

 責任意識の再確認

というテーマがあります。

実際、「責任とはどんなものか?」と聞かれて正しく答えられる人はそう多くありません。だから、頭の中で浮かんでくるイメージは大抵の場合、

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こんな記者会見の映像が頭に浮かんでくるのではないでしょうか。「責任を取る」「引責辞任」なんて言葉が思いつく人も多いことでしょう。

ちょっと調べてみると、

責任とは、社会的に見て自由があることに伴って発生する概念である。自由な行為・選択があることに伴い、それに応じた責任が発生する。

ある行為・結果に対してある人(例えばAさん)には責任がある、とされているということは、ある行為がAさん本人にとって選択の余地がある(つまり哲学的な用語で言えば自由意志に基づいて行うものである)と判断されていることを意味する。責任と自由は常に同時に存在し、切り離すことは出来ない。自由の無いところに責任は存在せず、責任の無いところに自由は存在しない、とされる。

責任の概念は、他のことを意志できること、少なくとも意志したとおりの行為を為すことができるという意味での自由意志の概念を前提としている。そのため、責任という概念は、伝統的に自由意志の概念とも結び付けられてきた。

ということが書かれています。難しいことは覚えなくても構いませんが、重要なのは、

 自由があることに伴って発生する

と言う点です。つまり、決断や判断の自由があれば、「その決断や判断に対する相応の責任も負わなければならない」と言うことです。決断したことを果たさなければならないと言うことです。言い換えれば、その責任を負いたくない、負えない人には、決断や判断を下す資格はないと言うことです。

 「なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの」

と、"なすべき務め"に対して引き受けるとあります。

"なすべき務め"は言い換えると「役割」です。何もないところにポンと「●●をしなければならない」と言う目標を与えられると、その時点で務め…つまり、「役割・任務」が生じるわけです。

この役割を成果に結びつけるためには、「裁量(自由)」を与えられなければならず、役割と裁量が適切であれば、当然適切な結果・成果を出さなければなりません。そのために引き受けるものが「責任」となるのです。

図にするとこんな感じでしょうか。

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どれが軽く、どれが重くてもいけません。常に等しく正三角形が維持できなくては、目的を達成することはできません。

よく、「責任を○○」と言う言葉を口にしますが、○○に当てはまるコトバを埋める際、大抵は「責任を取る」と言うコトバをイメージしがちです。

間違ってはいません。
間違ってはいませんが、勘違いしてもいけません。

何か不祥事や問題が起きてから「責任を取る」と言うのは、そもそも責任に対する意識が無く、日本語の適切な使い方からして誤っています。先に説明したように、責任とは社会的に見て自由があることに伴って発生する概念です。この説明に沿って考えれば「責任を取る」と言う言葉は成立しません。

これは、正式には「結果責任を取る」といって、「責任を取る」は略語でしかなく、全く異なるものであることを意味します。

「結果責任を取る人」と言うのは、そうせざるを得ない状態にならないよう、最初から「責任を負う」役割を十全に果たさなかった人の末路です。だから、"結果責任しか取れない"人は、本当はただの無責任なだけなのです。

役割とその役割を果たすために必要な裁量(自由)を持つ人は、その役割と裁量に見合った責任が発生した時点から、その責任に対して目を背けずに、成果が出るよう最大限努力します。

これが本当の意味での、責任感のある人です。
これ以外は、原則「責任感のある人」とは言いません。

だからこそ、自分に与えられた役割に対して手を抜いてはいけないわけですね。どんな活動でもそれが「仕事」である以上は、必ず結果(=アウトプット)が求められます。結果は必ず"求められた形"でなければなりません。役割を与えられたものが勝手に変えていいものではありません。これに対して勝手に結果を変えると言うことは、

 「結果が不十分となることを確信犯的に実行する」

ということであり、つまりは

 「発生した責任を果たさない(果たす気がない)」

と広言しているのと同じ意味を為します。

モチベーションが下がることも、
体調管理ができていないことも、
必要な努力が不足していることも、

それらが外的要因によるものではなく、セルフマネジメントができていないことによる内的要因が原因であった場合、

 "手を抜いている(責任感がない)"

と言うことになります。なぜなら、誰かに働きかけてもらわなければ、自分のことすら自分でコントロールする気がないと言っているに等しいからです。

求められた内容に十分な結果であれば、どんな手法で、どんな楽の仕方をしても(他人に迷惑をかけない範囲で)構いませんが、少なくとも私の中では「楽をすること」と「手を抜くこと」はイコールではありません。

「楽をすること」とは、同じ結果を導き出すための過程を効率化すると言うことであるのに対し、「手を抜くこと」とは、結果が異なる危険を冒し必要な過程を省略することを指すという認識だからです。
 
たとえば、カレーを作るシーンを想定してみると、

 楽をする → スパイスから作らず、ルーを使う
      → あるいは作らずに、外食で済ませる

と言ったように、結果としてカレーを食べる目的は果たせます。
しかし、

 手を抜く → ルーを使わなかった
      → あるいは鍋に材料を入れた後、火をつけなかった

として、必要な過程を省略すると、そもそもカレーと呼べるものが食べられません。

 求められる結果に対し、責任を持って取り組み、完遂させる
 と言う当たり前のことを、当たり前に実践する。

社会人として、組織人として、普段からこうした「当たり前」が心がけられるようになっておかないと、いずれ結果責任を問われることになるかも知れないのです。


今の世の中は、「責任」を負えない大人ばかり跋扈しています。

これから社会人になる人たちには、そんな大人たちにはなってほしくないものです。

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