須田光彦 私の履歴書22
宇宙一外食産業が好きな須田です。
私は23歳で設計事務所に就職することになりましたが、通常は専門学校を卒業した20歳に就職します。
早く社会に出て稼ぎたいからと言って、大学ではなく専門学校に行ったくせに、設計事務所に入社するまでに、よけいに時間をかけてしまいました。
5ヶ年計画のせいもありましたが、実際に飲食業に触れてみて、上京して東京を知れば知るほど、もっと飲食とそれに関連することを知らないといけないと、思うようになっていきました。
どこかで、大きな恐怖もありました。
このまま専門学校を卒業してスンナリと就職することへの不安、経験が足りていないことへの不安、いいように大人に、会社に使いまわされてしまう不安など沢山の不安があり、理論的な裏付けと経験値を上げたかったのが本音です。
この思想の根源は、高校1年の時の経験だと思います。
高校生のレベルに体力的に追いつくことが出来ず、オーバーワークで体を壊して選手生命を絶たれたことで、基礎の基礎が如何に大切かをこの経験で骨身にしみて覚えたと思います。
今思えば、クリエイターとしての基礎体力をつけたかったんだと思います。
その為の経験をする時間が、私には必要だったと思います。
頑固で不器用な部分が強い性格なので、体験学習でしか身につかいない特性もあり、自ら体験する必要がありました。
そのお陰で、理論だけの見せかけの武装ではなく、実戦で身に着けた理論と経験は、その後の設計にも業態開発にも役立っていきました。
設計事務所に就職すると決めて専門学校の学生課に行った時に、現役の学生が就職相談をしている様子を脇で見ていたことがありました。
相談に乗ってもらっていたのは20歳の男の子でしたが、その時気づいたことが、
「あっ 俺はこの現役世代と比べられるんだ!」
「何も解らないかもしれないけれど、この20歳のフレッシュな応募者と、訳のわからない経験をしてきた23歳の自分、この状況が発生するんだ、そうか俺は年齢という大きなハンデを背負っているんだ」と、この時になってはじめて気づきました。
そう気づいたところで “時すでに遅し” です、そんなことを気づいたところで、後戻りもできません、負けるわけにはいきません。
遠回りした分、いつもと同じように人並み以上に頑張ればいいんだ、同期とは3年の差があり設計者としての経験不足は認めざるを得ないので、誰よりも頑張んなければと思っていました。
そんなことを、相談を受けている学生さんを見ながら感じていました。
でも、結果的に3年遅れていたと思っていたことは、実は、真逆だったとその後気づきます。
初仕事で日本一になるお店を創り、設計しかしてこなかった設計者とは違う店創りができ、飲食しかしてこなかった人には見えない景色が、私には見えていました。
3年の遠回りではなく、本当のプロになるためには近道だったのかもしれません。
通常は、設計の仕事を通して飲食業と接していきます。
仕事を通して、飲食業に触れていくのが一般的な設計者の成長ルートですが、私は逆に飲食業を先に体得していました。
特に、最初に勤めた設計事務所の所長は、「お店のことには口を出すな、特に商品のことには口を出すな、そこはお客様が考えることで、設計者は設計のことだけを考えろ」というのが持論の方でした。
私は業態を理解できないと設計ができないと考え、16から一貫して現場主義でやってきました。
業態を把握すること、店舗のオペレーションを知ること、顧客心理を理解することで設計は成り立つと思っているので、この所長とは真逆の思考でした。
一般的な設計者が、飲食業を外野から何となく想像しながら設計しているのに対して、ドップリと現場に浸って設計するのとでは、業態の理解度が全く違っていることに、初仕事で気づきました。
なので、最初からコンサルティング的な要素の強い設計となり、かき揚げのサイズを聞き、コロッケの並べ方も、販売手法もお客様の心理も理解した設計となりました。
でも良いところばかりは無く、若いころの私は本当に酷かったんです。
口の利き方を、全く知りませんでした。
致命傷となるほどの酷さでした。
短気が服を着て歩いているようなもので、曲がったことは嫌いで、清濁併せ飲む器量もなく、いつも他人とぶつかっていました。
パン屋さんでのあだ名は、羽田沖で突然逆噴射をして、飛行機事故を起こしたパイロットの名前で呼ばれていました。
私は非常識で、突然何を仕出かすかわからないので、この精神的に病んでいたパイロットの方の名前で呼ばれていました。
設計事務所に入社して、1か月も満たないある日、所長に何も考えずに質問してしまいました。
「所長、所長は料理はできるんですか? フライパンは振れるんですか?」
すると当然料理はできない、やらない、奥さんがいつも料理をしていると答えます、当然そう答えることはわかっています。
その答えを聞いて、私は何も考えずに言ってしまいました、
「あ~ だからダメなんだ だからこんな設計しかできないんだ!」
「これじゃ仕事できないよ、こんな厨房レイアウトならアウトですよね!」
この後のことはもうご想像がつくと思いますが、その想像以上でした所長のお怒りは。
烈火のごとく怒鳴り散らされ、所長としての面子も威厳も、これまでの数々の実績も何もかも全てを否定してしまったことに、怒りが爆発してしまい、そこから2時間以上怒鳴られ続けました。
午前中いっぱい、立たされたまま怒られていました。
私としては、設計内容が間違っている、そんな厨房機器の並びでは効率が悪い、商品が早く出せない、作業導線に無駄が多すぎる、長年仕事をして来た大ベテランの設計者なのに、なんでこんな簡単なことも解からないのだろうという思いで発した言葉でしたが、使った言葉の種類と表現が悪すぎました。
相手への尊敬も何もない発言です、怒られて当然です。
お客様の心理はわかっているつもりでしたが、社会人として、組織の一員として必要なことは、圧倒的に欠落していました。
体育会系の上から命令されることには適応できていましたが、組織の一員としての常識とノウハウは欠落していました。
なんとしても上に行くんだという思いが強すぎて、周りと衝突ばかりしていました。
言葉使いを知らなく、それまでも務めていた職場でも同様のことは数々ありましたが、実力で上まって来た自負と、結果さえ出せばそこはどうでもいいでしょうという、非常に利己的で偏った考え方を当時はしていました。
設計は実力の世界、良い設計とそうでない設計は一目でわかります。
飲食店においては、ハッキリと判別できます。
その自分だけの浅はかな基準で、所長に言葉を発してしまいました。
所長のお怒りはごもっともです、逆の立場だったらと考えるまでもなく、至極当然の反応です。
でも、馬鹿な私はやってしまいました。
今思えば、本当に猿かヒグマみたいでした。
この事務所から、長年共にしている同僚には、
「オオカミの革をかぶった熊」と、言われていました。
せいぜいオオカミくらいだろうと思って付き合っていると、中からもっと狂暴な熊が出てくる、そんな奴だと比喩されましたが、まさしく正解でした。
常に、その凶暴性が同居していました。
国立(くにたち)のパブに飲みに行っていた頃に、30代の塾をいくつも経営している方と仲良くなりました。
その方とカウンターで飲んでいるときに、彼が若い私を捕まえてちょっと上から目線でありながらも、愚痴っぽいことを言ってきたことがありました。
その愚痴に反応して、自分なりの今思えば稚拙な考えを披露していましたが、その塾の経営者から、
「須田君は傷口に塩を塗るのが得意だよね、しかもナイフで傷口を広げて、ほらこれが傷 怪我の程度はこの程度と見せてくるような、全く酷いことをするよね」と言われたことがありました。
その時はそうなのかなぁ、自分なりに一生懸命に答えたつもりが、なぜそんなことになるのかと、ガッカリしましたが、当然、これ以降この方とお会いすることはありませんでした。
私はこのお店から、大事な顧客を一人奪ってしまいました。
2社目に入った設計事務所では、言葉と態度が原因でもっと過酷な試練がありました。
でもそのおかげで、しっかりと学ばせて頂きました。
2社目の設計事務所は、時代がバブルに突入していたこともあり、物凄く忙しく仕事があふれかえっていた状況でした。
ある日の朝、社長が出勤したと同時に、私に社長室に来るように言います。
社長室に入るなり、
「須田君、今日から電話には出ないように!」
「君と話すと気分が悪くなると、職人さんからもお客様からもクレームがきているので、今後一切電話に出ないように!」
電話禁止令が発令されました。
既に会社の先輩方は全員知っていることでした、事前に全員が相談して決めていたことでした。
私はその時を境に、電話には出られません。
絶対に出ませんでした。
携帯電話もまだなく、ポケットベルもまだ一般的でない時代です、唯一のコミュニケーションの方法は電話しかありません。
バブルの走り出しのころですから、一日中電話が鳴りっぱなしです。
どんなに電話が鳴っていても、絶対に電話に出ませんでした。
意地になって、電話に出ませんでした。
ナンバー2の先輩が、電話に出れとブチ切れて怒鳴ってこようと、 「社長に電話に出るなと言われていますから」と、腕組みをして睨み返して答えていました。
そうです、私はいつも喧嘩腰でした。
何もかも、常に何かと闘っていました。
自己イメージが低すぎて、心理的なバランスが崩壊寸前でしたが、当時は幼すぎてそのことに気づきませんでした。
基本的に劣等感の塊でしたから、闘って勝ち取る方法しかわからなく、協調することを知りませんでした。
この時社長に言われたことに、人にものを聞くときは “なぁに” と、普通の人は語尾が下がるが、須田君は語尾が上がる、“ナニィ!” になるから、それを聞くと、たいがいの人は気分が悪くなる。
その言い方は、完全に喧嘩を売っているときの言い方だからね、と言われました。
確かにその通りです、映画に出てくるチンピラのようなイントネーションで、いつもそんな感じでした。
勝負を仕掛けている感じ、まるで喧嘩腰の、世間知らずも甚だしい状態でした。
でも、このことがあって、なぜ自分はこんな話し方なのだろうか、このような気持ちなのかじっくりと考えてみました。
すると、やはり高校での経験が原因で、負けたくない気持ちが強すぎて、舐められないように馬鹿にされないようにと、威圧的な部分が言葉にも態度にも出ていました。
そもそも誰とも何とも喧嘩する必要も闘う必要もないのに、一人無駄に空回りをしていました。
この電話に出ない期間に、私の師匠であり、恩人である坂田さんは、 「なぜ、坂田さんは職人さんとこんなにも仲良くできるのか、なぜお客様に可愛がられ信頼されるのか、自分とは何が違うんだろう」と、思っていました。
図面は一生懸命に書いていました、現場の仕事も誰より頑張っていました。
汚く、危険で、嫌われる仕事は自分の持ち分と思って、誰もが嫌がる仕事を率先してやっていましたが、それでも職人さんからは敬遠されていました。でも、坂田さんが現場に来ると現場の雰囲気が一変して明るい楽しい現場になります、職人さんもどこかホットしています。
自分と坂田さんの違いが判りません、有名なコンサルが言うところの 「違いを産む違い」が判りません。
考えても解からないので、考えあぐねて名案を考え付きます。
「そっか 坂田さんを真似ればいんだ 坂田さんになってしまえばいいんだ」と気づき、その瞬間から坂田さんを常に観察するようになりました。
一般的に言われる“守破離”の守とかモデリングと言われることですが、この時はそんなことも知りませんでした。
ただ、目の前になりたい自分の姿を体現している人がいる、その人になればいい、それだけのことでした。
元々似たような体格でファッションでしたが、着るものから、髪型から、話し方から、ギャグまで、なんでも真似しました。
坂田さんが電話に出るときは特に注意して、今はやりの漫画ではないですが、全集中で一言一句漏らさず聞いていました。
「あ~ こんな風なイントネーションなんだ!」
「あ~ こうやって笑うんだ!」
「そっかこうやって受け答えするんだ!」と、
次々と坂田さんを盗んでいきます、坂田さんを吸収してきます。
自宅で坂田さんに成りきるための練習もしました。
電話応対のイメトレも、1人ロープレもしていました。
名案を気づいてから、こんなことを3か月くらいやりました、この間一切電話に出ることはありませんでした。
半年が過ぎたある日社長が出勤して、私を又社長室に呼びだしました。 すると、
「須田君、お願いだから電話に出て!」
「確かに電話に出るなとは言ったけど、あそこまで電話に出ないと逆に業務に支障が出ているから、今日からは電話に出るように 全く頑固にもほどがあるよ」
と、怒られながら許可を頂きました。
設計室に戻ると坂田さんが一言「バ~カ!」と言って、ニコニコと笑っています。
いつも坂田さんは、私にこの「バ~カ」を言ってから大事なことを教えてくれました。
坂田さんのこの “バ~カ” が、私は大好きでした。
この時を境に電話に出るようになりましたが、電話に出るときは坂田さんになりきって出ます。
私が一番の若手ですから、電話が鳴ると一番先に出ます。
半年前は、この電話が相手の気分を害していましたが、今出る私はいわば偽物の坂田さんです、私ではありません、それくらいの想いで出ました。
社名を名乗ると受話器の向こうから、「あっ坂田君? あのさ」と職人さんが言って来ます。
「坂田ですね、少々お待ちください。」と答えると、なんだ「須田か 早く変われよ 間違えただろ オメーに用はないんだよ」と言われましたが、 それほど完全にコピーしていました。
この数か月後には、坂田さんとは兄弟みたいだなと言われるようになり、何とか職人さんにも認められるようになり、野獣扱いから人扱いもしていただくようにもなり、仕事でも徐々に認めていただけるようになっていきました。
昨今では、お客様のスタッフ教育のお手伝いもさせていただいていますが、どんな若いスタッフがきても、私以上に酷いスタッフはいません。
こんなにも酷かった私でさえ、何とかなったと自分では思っておりますが、誰でも成長できます。
自ら成長したいと思えば、必ず成長できます。
努力は嘘をつかないと言いますが、努力に見合った成長が確実に手に入ります。
今はそのように伝えられる、その為に必要な経験だったと思えます。
どれもこれも、私にとっては非常に貴重で、必要な体験でした。
でも、これ以外にもまだまだ過酷な修業は続きます。