フィクション泥棒 / ネオレアリズモ
こうして毎日noteを投稿していると「これだけ書いていて他にすることがないのか」と呆れる方がほとんどだと思うが、僕は毎日、どのnoteも数十分で書き上げている。推敲らしいことはせず、書きながら助詞や語尾を直す程度だ。読者からカネをとるわけじゃあるまいし、勝手気ままに書きとばしている。他人はじぶんと同じような能力を持つという先入観は捨てるべきだろう。
たとえば、僕がアンドロイドあるいはAIだとすれば、読者は「あのnoteは人が書いていないのだから、いくらでもnoteを量産できるだろう」と理解できる。ところが、人間という生き物は身体能力を除けば他人はじぶんと同じような性能だと思いたがる習性がある。
余談になるが、僕はとある進学校に在籍していた時、現代文の教師が「お前の読書感想文は素晴らしいからコピーして全校生徒に配る」と言って、校内の連中に作文を読まれて妙に恥ずかしい気持ちになったことを覚えている。読書感想文の宿題をすっかり忘れていて、前夜に1時間ほどだろうか、原稿用紙に慌てて書いたものだ。当時の僕はそのことを通して「おれには文才があるんや」と嬉しくなることはなかった。むしろ数学や物理が得意で、大学も理系で進学するのだから、文章なんて関係のないことだと感じていた。だが、さっさと書き飛ばしたものが評価されたことは、なんだかじぶんだけが仲間外れにされたような味がした。
さて、ヒトは本当は互いに姿が似ているに過ぎず、感情や思考、能力は千差万別なのだという事実は見過ごされがちだ。イタリアのインテリたちは、戦後に荒廃した街の中で「この貧しい人たちを代弁せねば」と多くが共産党員になり、街中の人たちを描く映画を撮るなら街中の人たちを出演させてしまえばいい、というネオレアリズモと呼ばれる運動が起きた。フィクションとリアルが交錯するような表現方法だ。この運動は実にイタリアで説得力があったらしく、ロッセリーニ、デ・シーカ、フェデリーニ、パゾリーニ、ベルトルッチ、ヴィスコンティなど、名だたるイタリア人監督は皆、程度の差こそあれネオレアリズモに関わっていた。つまり、フィクションとは所詮、絵空事に過ぎないのだが、そんな空想の産物を生み出す気にならないほど、目の前の街が荒れ果てていたのだろう。イタリアはGHQの占領などというありがたいお節介がなかったので共産党が勢力を伸ばしたこともネオレアリズモの一因だ。
他人を描写するということは、実はとても難しいことだ。他人だからだ。しかも、千差万別だからこそ、野菜はブロッコリーを語れても、ブロッコリーは野菜を語ることができない。だから学問や芸術は大切だ。
あの戦争の後、イタリア人監督たちは、街中に文字通り飛び込んでいった。現実もまた、時にはフィクションのように感じられる。「自転車泥棒」や「揺れる大地」を観ていると、本当に戦後のイタリアに滞在しているような感覚になる。それだけ戦後イタリアの現実はバカバカしいほどに現実離れしたものだったということだ。多くの監督は後にネオレアリズモの手法で撮ることをやめている。「現実」というものがいちばんのフィクションだという原点に帰っていったのだろう。つまり、現実とフィクションというものは二項対立するものではなく、同じことを言い換えているに過ぎないーー。きっとあの監督たちは、そういうことを感じたのだと思う。