どちらの立場で物語を眺めるのか / 「レヴェナント:蘇えりし者」
パルム・ドールよりもビジネスや政治的メッセージの側面が強くなってきたアカデミー賞のなかでも、まだアートと呼べる作品といえばアレハンドロ・イニャリトゥ監督の2015年の映画「レヴェナント:蘇えりし者」だ。本作は"復讐"の物語だと紹介されているが、それはただのあらすじである。イニャリトゥ監督が156分もかけて"復讐したぞォ"なんて映画を撮るわけがないのだが、見えない人に見ろと言うのも酷なことだ。なお、いつになったら主演男優賞をもらえるのか、とネタにされていたレオナルド・ディカプリオは本作でやっと受賞を果たした。よりにもよって雪まみれで匍匐前進をし、馬の死体の中で眠る役である。
本作の舞台はミズーリ川の上流、今日のサウスダコタ州に当たる地域だ。実在した毛皮商人のヒュー・グラスの逸話を題材にしている。もちろん当時はアメリカ合衆国がフランス領ルイジアナからミシシッピ川の流域を"買収"した後のことだが、それは白人の勝手な都合であり、要するに現地は先住民たちの住む所だった。
さて、主人公グラス(レオ様)の一行がアリカラ族の襲撃を受けるところから物語が始まるのだが、この襲撃は酋長の娘ポワカを毛皮商人たちが拉致したからだと後に判明する。侵入者に娘を誘拐されたら取り返しに行くことは当然であり、息子のホークのためにフィッツジェラルドを追うグラスの物語と相似である。
逃避行の最中、美しく雄大な光景のなかでグラスがグリズリーに襲われるシーンが描かれることによって、この大地において白人とは"侵入者"だと示唆されている。強盗殺人犯たちが銃で武装して娘を誘拐しているのに、それを犯人からの視点で眺めるという従来の立場、すなわちロバート・アルトマン監督が「ビッグ・アメリカン」において批判したような、白人が望むことをエンターテイメントとして見せることの俗悪が指摘されている。つまり、観客はグラスが息子ホークのために決死の撤退を続ける様を本作で観ることになるのだが、それは映画の冒頭でグラスたちを襲うアリカラ族の人たちと全く同じ動機すなわちストーリーとして相似であることに気付いていますか、ということだ。これは"フロンティア"という言葉によって無数の強姦と殺人が隠されているという、"人が誰かを支配すること"への批判である。マイケル・マン監督は1992年に映画「ラスト・オブ・モヒカン」でこうしたテーマに取り組んでいた。
また、冒頭に掲げた美しいカットのように、雄大な自然を自分たちのものとして"所有"するとはどういうことなのかという問いでもある。大自然のなかで人間は小さな点に過ぎないのに、フランス系カナダ人やアメリカ人など、白人たちが武装して侵入することによって、金銭と引き換えに何が失われていくのかということが示唆されている。侵入者たちが持ち込んだものは銃だけではなく資本主義でもある。イニャリトゥ監督はこうしたモチーフを次回作「バルド」でさらに追求していた。
瀕死のグラスを演じて主演男優賞をようやく受賞したレオナルド・ディカプリオは、1997年の映画「タイタニック」で受賞しなかったことが意外だった。その後の主演作でいうと、2004年の映画「アビエイター」か、2013年の映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の演技は受賞に値するものだったと思う。
しかし本作は、ここ10年のアカデミー賞のなかでは最もマシな出来である。映画もネット配信される時代になったのだから、選考基準をさっさと変えて時流に乗らないと、若者がどんどん映画から離れていくだけだろう。